Archive for 2010年1月

根津美術館で清涼な雰囲気と陶磁器を楽しむ

1月 31, 2010

<趣のある清涼な雰囲気をもつ美術館>
2010/1/30(土)に表参道にある根津美術館へ行きました。
根津美術館は、初代・根津嘉一郎が蒐集したコレクションを保存し、展示する美術館です。
初代ということは、二代目・根津嘉一郎という方もおりまして、この方が初代の志をついで根津美術館を開館しました。
日本において、第二次世界大戦以前から存在するという美術館は非常にめずらしいらしく、根津美術館はそのひとつに数えられます。

この根津美術館、実は2006年5月から先年の2009年10月まで、3年以上の改装中でした。
そして、改装が終了してからは新創記念特別を開催しています。
昨日はその第3回にあたる、「陶磁器ふたつの愉楽」展にいってきました。

通常、陶器や茶器、仏像などの古典的なテーマを中心とした展覧会というのは、おば様たちが大変多く、会場内はとても騒がしくなります。
この「陶磁器ふたつの愉楽」展も、会場内はおば様たちの話し声がガヤガヤとやかましかったです。
また、1階フロアに展示されている数体の仏像は、時間帯の関係もあるとは思いますが、逆光を浴びてしまいとても鑑賞しづらかったです。
しかし、こうした減点要素を補って余りある、魅力が根津美術館にはあります。

私が根津美術館の存在を知ったのは、改装に入った後でした。
そのため、今回、初めて根津美術館を訪れたのですが、その外観と庭の美しさと空気感のすばらしさに見せられてしまいました。
よく手入れが行き届いている庭に、都会とは思えないほど雑踏の音が届かず静かです。
冬の時期なので、空気も澄んでいて清涼な雰囲気が味わえます。

手入れの行き届いた大きな木が日の光を浴びて、輝く姿。おそらく離れとして使われていた小さな平屋。可愛らしい小船。こんな小道をもありました。そして、お堂。
いかがでしょうか。
写真では表現しきれていませんが、都内の美術館とは思えない、物静かで素敵な雰囲気です。

漫画的で可愛らしい長沢芦雪の『犬図』>
さて、展示内容の紹介です。
私の印象にのこっているのは、長沢芦雪の『犬図』という作品です。
長沢芦雪は、江戸時代の絵師で、かの有名な円山応挙の弟子であったといわれています。

江戸時代、円山応挙の弟子が墨で描いた作品、と聞くと静かで、歴史を感じさせる重々しい作品を、普通は想像すると思います。
しかし、芦雪の『犬図』はまったく正反対です。
その名のとおり、数匹の犬が主題で、その犬たちが戯れている図を描いたものです。
犬が戯れているという構図も微笑ましいのですが、描かれた犬の姿がなんとも可愛らしいのです。
犬たちの姿が写実的でなく、ちょうど今の漫画のようなデフォルメがされていて、「江戸時代の絵師でこんな絵を描く人がいたのか!?」と意外に思うと同時に、犬の可愛らしさに思わずニヤけてしまいました。

<マイアートは祥瑞瑠璃釉瓢形徳利>
せっかく、陶磁器がテーマなので、陶磁器の作品も紹介したいと思います。
今回のマイアートとしたいとも思ったのが、『祥瑞瑠璃釉瓢形徳利』です。
<しょうずい・るりいろゆう・ひさごがた・とっくり>と読みます。

高さ20センチ程度で、徳利としても普通の大きさだと思います。
ふかい瑠璃色と微妙にひしゃげている全体の姿がとても綺麗で愛らしい作品です。
日本酒は飲みませんが、この徳利から注がれた日本酒を飲んでみたい、と思いました。
とはいえ、徳利といっても本当にお酒を入れるのが用途なのか、というとちょっとわかりませんが。

ちなみに、祥瑞とは、中国の民の時代に景徳鎮窯という場所で焼かれた染付けの陶器のこといいます。ですので、ある名人が作った、というようなものではありません。
また、瑠璃釉とは、瑠璃色をした釉薬がかけられている、ということ意味しています。つまり、陶磁器の色を表しています。
ですので、上記の難しい名前の意味は、「景徳鎮窯で焼かれた瑠璃色をしている瓢(ひさご=ひょうたん)の形をした徳利」という意味になるようです。

名前は難しいですが、名前とは違い、その姿はシンプルで可愛らしい陶磁器です。

展覧会の内容もさることながら、美術館自体もとても素敵です。
古来から伝わる美、そして都会にいながらにして清涼な雰囲気を味わいたい方は、ぜひ根津美術館まで足を伸ばしてみてください。

【会場情報】
◆根津美術館
http://www.nezu-muse.or.jp/
◆TAB-「陶磁器ふたつの愉楽」
http://www.tokyoartbeat.com/event/2010/B63A

【作家情報】
◆長沢芦雪(Rosetsu Nagasawa)
“長沢芦雪”によるgoogleの画像検索結果 (※『犬図』は発見できませんでした)

【次の予定】
◆「エレメント 構造デザイナー セシル・バルモンドの世界」展 @東京オペラシティ
http://www.operacity.jp/ag/exh114/
◆TAB-「エレメント 構造デザイナー セシル・バルモンドの世界」展
http://www.tokyoartbeat.com/event/2009/3B6D

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リーダーって何だ?

1月 28, 2010

<状況対応リーダーシップを学ぶ>
2010/1/25(月)に第8回すくすくスクラムに参加しました。
今回のテーマは、「1人1人がリーダーだ!」ということで、スクラムチームにおいて、ひいてはスクラムを行う/行わない、にかかわらず組織においてのリーダーの振る舞い、を学ぶことが目的でした。
ちなみに、発表に使用されスライドは下記のURLから見られます。
http://www.slideshare.net/SukusukuScrum/no00801suc3rum20100125

この勉強会で学んだこと、そして思ったことは、

とるべきリーダーシップは、状況によって変わりうる
リーダーの立場をとる人が変わっても良い
リーダーと責任者は違う

ということです。

<レディネス・レベルを基準にとるべきリーダーシップを変化させる>
レディネス・レベルとは、ある課題を解決するためにどれほどの準備ができているか、というレベルをあらわすものです。
そして、レディネス・レベル、「意欲」と「能力」の2軸によって、以下のように判定されます。

レベル1:「意欲」が低く、「能力」が低い
レベル2:「意欲」が高く、「能力」が低い
レベル3:「意欲」が低く、「能力」が高い
レベル4:「意欲」が高い、「能力」が高い

このレベルが高いほど、課題を解決するための準備ができており、課題解決の可能性も高いといえます。
リーダーシップは、このレディネス・レベルによって変化させる必要がある、と状況対応リーダーシップは考えます。
すなわち、

レベル1:「意欲」が低く、「能力」が低いチームにたいしては、教示的なかかわり
レベル2:「意欲」が高く、「能力」が低いチームにたいしては、説得的なかかわり
レベル3:「意欲」が低く、「能力」が高いチームにたいしては、参加的なかかわり
レベル4:「意欲」が高い、「能力」が高いチームにたいしては、委任的なかかわり

とリーダーシップのとり方を変化させる必要があるということです。

教示的なかかわり方とはなにか、という細かい説明は、上記に紹介したURLでスライドを見ていただくこととして、重要なことは、チームの状況いかんによってリーダシップを変化させる必要がある、ということです。
リーダーというと、カリスマ性を持ち、確固たる信念を持ち、一貫性のある姿、行動を想像させます。
しかし、状況対応リーダーシップにおいては、一貫性のある姿や行動ではなく、チームの状況に合わせて振る舞いを変えることのできる柔軟性を求めています。

自らの価値や考えを明確に打ち出し「俺について来い」というリーダーシップ。
自らの意思や欲望を抑え「あなたたちを信頼して任せるよ」というリーダーシップ。

どちからといえば、後者の相手に権限や行動を委任する、というリーダーの方が人間的にも、成熟している印象があり、人間的にも優れていると感じます。
しかし、そのようなかかわり方しかできないと、レディネス・レベルがレベル1のチームには良い影響を与えません。
優れたリーダーシップは、チームの状況に合わせて、自らのスタイルを適切に変化させられる、柔軟性をもっているのです。

<リーダーの立場になる人は変わっても良い>
発揮すべきリーダーシップが、チームの状況に変わる、という考え方を少し推し進めると、「状況の変化に応じてリーダになる人が変わっても良いのではないか」という考えが生まれてきます。
状況に応じてリーダーそのものを変えてしまう、という考え方は、欧米の企業の取締役会が、自分たちの解決すべき課題を洗い出し、それに適任の人物をCEOとして向かえいれる、という習慣に似ています。
つまり、リーダーを、その人の「能力」に注目して選択しているのです。もちろん、「意欲」が高いということも前提にしているかもしれません。

しかし、リーダーをこうして選択する方法が、はたして良い結果を生むのか、という疑問はあります。
会社ひとつをとっても、1年間だけで噴出してくる問題は多岐にわたります。
そのたびに会社のトップである社長を交代したり、部の管理責任者である部長を変更したり、と組織をいじってしまうと組織に安定感がなくなってしまいます。
ようるするに、現実的ではありません。
また、上記のように招かれたCEOが実力を発揮し、突出した成果を残した、という話はあまり聞きません。

しかし、私が所属している開発チームにおいては、リーダーの立場になる人は状況において変わる、ということを体験することがあります。
たとえば、

お客様と話すときは交渉や機転が利く○○さんが中心に対策を立てよう
この業務においては、そこに詳しい○○くんの考えを中心に仕様を決めよう
結合テストは、全体的な業務と仕様にくわしい○○さんを中心に運営しよう

というように、チーム内ので作業フェーズや求められる能力によって、中心となる人物が違います。
このことは、リーダーを状況によって変化させている、と捉えてもよいと思います。

また、仕事じゃなく、趣味を考えると、状況によってリーダーが変わる、ということが一般的である、とすら思えます。
たとえば、私の職場には自転車に詳しい人、筋トレに詳しい人、秋葉原事情に詳しい人、PCに詳しい人、音楽に詳しい人、などいろいろな趣味をもった人がいます。
こうした人たちは、その人たちの周囲に大きな影響を与えています。
たとえば、自転車を買おう、と考えれば、自転車に詳しい人に話を聞きに行きます。
上京してきた友人を秋葉原観光に連れてゆこう、と考えれば、秋葉原事情に詳しい人に話を聞きに行きます。
そして、大半の人はその人たちの話を聞いた結果、その善意のアドバイスにしたがって行動するでしょう。
このようなことを続けてゆくと、ある集団において、アドバイスをし続けた人たちは、必然的にその分野において周囲に大きな影響を持つことになります。

教えを請うという状態の人、すなわちレディネス・レベルがレベル1ないしはレベル2の人にたいして、影響を及ぼしているわけですから、そのリーダーシップは、教示的ないしは説得的なものです。
そのため、リーダーシップの種類として、参加的、委任的な態度は含まれていないことになります。
しかし、集団においてある「能力」が不足している状態で、それを補完する優れた「能力」をもつ人が、その状況下で集団に大きな影響を及ぼし始める、というのは、状況対応リーダーシップについての事例のひとつになりうると思います。

<リーダーはリードする、責任者は責任を負う>
状況対応リーダーシップを発揮する人をリーダーというとき、それは人や集団をミスリードする、という可能性を含んでいません。
どのような態度をとっていようとも、リーダーは人や集団を良い方向に導いています。

しかし、ミスリードを行う可能性をリーダー持っているのであれば、リーダーはある状況下で人や集団にたいして一番、影響力をもっている人、と定義できます。
こうしたとき、会社だと課長や部長、そして、社長なども立派にリーダーといえます。
そのような地位にある人たちは、自らの部下と自ら統括している組織が抱える仕事に大きな影響力を持っています。
程度の差はありますが、組織内で人を好きに動かすことができますし、仕事の割り振りについても裁量を持ちます。
とはいえ、そのような立場にある人たちが一様に、リーダーとして周囲に受け入れられているワケではありません。
むしろ、ハゲ課長、バカ部長などと、バカにされていることのほうが多いように思います。

なぜなら、ハゲ課長やバカ部長は、その人にとって単なる組織の責任者に過ぎないからです。
部長や課長という役職をもつ人は、単にそれだけでは、遅刻・欠勤の際に連絡する人、経費清算の際に書類にサインをもらう人、休みの許可を申請する人、でしかないのです。
部下や周囲の人たちから見て、周囲に良い影響を与えていない責任者は、単なる責任者でしかありません。
むしろ、その単なる責任者が、自分の力や立場を勘違いして傍若無人な振る舞いをとると、嫌なやつだとみなされ、ハゲ、バカ、扱いになるのです。

しかし、責任者は、組織としていなければいけない存在でもあります。
責任者がいないと、誰に遅刻や欠勤の理由を伝えるのかも、経費申請をすべきなのかも、わからなくなります。
そして、従来、組織の責任者は、同時にリーダーであることも求められました。
しかし、こうした周囲の期待に責任者が応えるのは、容易なことではありません。
上記のように状況は容易に変化し、チームの「能力」と「意欲」は常に変化するからです。
このときに、責任者は自らのリーダシップを変化させて対応せねばなりませんが、多種多様なリーダーシップをとることは大変むずかしいことです。。

こうした状況下での正解は、リーダーシップを発揮すべき人を他に任命し、責任者は自らの立場と範囲において責任を取る、というものになるのではないでしょうか。
確かにそのようなことをすると、責任者は完全にまな板の上の鯉状態になります。
結果を出すべきチームのハンドリングを他の人に任せてしまい、責任者自らはその成否の責任だけとるわけですから、割に合わないとすらいえます。
しかし、責任者が冷静に判断すべきです。
つまり、自分で権限をもち続けて失敗するか。
それとも、自分の権限をリーダーとなるべき人に、役職も立場も関係なく委譲し、成功することにかけるか。

リーダーシップというと、役職や地位を伴っている人たちにもとめられるものでした。
それゆえに、リーダーとは役職つきの人たちのことを指すことが当然のものともされてきたと思います。
しかし、ある状況下で、人や集団に大きな影響を与える人をリーダーと呼ぶのあれば、その集団にいる人々たちすべてがリーダーになりえます。
重要なことは、そうしたリーダーが入れ替わってゆく状況をいかに受け入れる体制を作れるか、ということではないでしょうか。
組織における責任者は、肩書きどおりに振舞うことに固執しすぎて、状況や現場が生み出すリーダーたちをつぶしてはいけないのだと思います。
むしろ、そうしたリーダーをバックアップすることで、良い組織が出来上がってゆくのではないでしょうか。
少し理想論が過ぎると思います。
しかし、一人の万能型のリーダーが組織を引っ張り続けられる、と考えるよりは、むしろ現実的なものであると私は思っています。

「山本冬彦コレクション」展でコレクションがちょっとしたくなる

1月 23, 2010

<小さな会場に大量の作品>
2010/1/16(土)に千駄ヶ谷の佐藤美術館で開催されている「山本冬彦コレクション」展へ行きました。
この展覧会は、前の記事で紹介した『週末はギャラリーめぐり』の著者であり、美術品のコレクターでもあります。
サラリーマンながら蒐集したコレクションは、1300点を超えるというすごい方です。
現在はアートソムリエを自認し、アートの楽しみ方を普及させようと尽力されています。

この展覧会は、まさに趣味を極めたといってよい、山本冬彦さんの1300点を超えるコレクションの中からえりすぐられた161点の作品を鑑賞することができます。
3階に紹介や支援を目的として購入した若手の作家の作品、4階は、山本冬彦さんが好きで集めた同世代の作家の作品、5階には大作がそれぞれ展示されています。

私が佐藤美術館に足を運んだ日は、山本冬彦さんのトークショーが運よく開催されており、トークショーの際には、会場となった3階のフロアは人で一杯になっていました。
ちなみに学生は300円、一般でも500円、と鑑賞料が通常の展覧会くらべて1/3程度になっています。
161点もの大量の作品を鑑賞することできる、ということで、大変、お得な展覧会です。

<見ごたえある大量の現代アート作品>
私が特に気に入ったのは、3階のフロアです。
そこには、山本冬彦さんが支援も目的として購入した現代アートの作品の数々が並べられていました。
大量の作品を展示するため、作品の一つ一つを展示する間隔がとても狭く、雑然とした雰囲気なのは否めません。
ですが、色彩もモティーフも明るい作品が多く、作品1つ1つの明るい印象と、雑然とした展示の雰囲気とがマッチしていました。
まだ枠にはまっていない、無軌道なイメージのある現代アートの性格をあらわしているかのようでした。

私が考える、現代アートのよさは、気軽に楽しめる、という点だと思います。
ルネサンスなどの絵画は、その作品が生まれた歴史などのバックボーンを理解した上で、鑑賞することが求められます。
というのは、その当時の文化や価値観を共有していないと、その作品の面白みや価値を理解できないこともあるからです。
たとえば、当時からすれば斬新な構図だったり、過激なモティーフを取り上げたりしている作品も、現代の人から見る普通のものだと受け止められることがあります。
これは、現代を生きる私たちが、その当時の文化や価値観を生で体験することができないためです。

しかし、現代アートではそのような心配はありません。
現代を生きる私たちと作品を創作する作家は、同じ時代を共有しています。
ですので、その作品を楽しむために現代の価値観を探ろう、などと構えなくてもよいのです。
それは、現在の私たちがその作品をどのように受け止めて評価するかによって、その作品の価値を決めることとなるからです。
もちろん、作品の価値を芸術の歴史の文脈に位置づけて語る人にとっては、芸術の歴史を知る必要があります。
また、勉強していないと、自分が「新しい!」と感じる手法で製作されていても、実際は伝統的な手法で製作されていた、という勘違いもあるかもしれません。
ただ、作品そのものを楽しんだり、価値をはかろうとするときは、何も専門的な知識を持つ必要はありません。
たとえ、好き/嫌いというだけのベクトルだけで判断する「素人判断」といわれるような作品の見方をしても、その作品の価値を創造するの一助になる、というのが、作品とともに生きて鑑賞している私たちの特権なのだ、私はそうのように思っています。

3階のフロアは、このような現代アートの性格や面白みを感じることができる空間であったと思います。

<アートを消費する>
トークショーも聞いてきたので、そのまとめも少し書きたいと思います。

山本冬彦さんがサラリーマンでありながら、20年間もアートを蒐集してきた動機は、単純明快に「好きだから」だそうです。
購入されてきた作品も50万円を超える高額な作品は数少なく、高くても10万円前後の作品を購入されたり、数千円の作品を購入されたりすることも多いとのことでした。
特に、蒐集を継続するために必要な時間やお金の点については、「他の人たちが、タバコの煙、お酒、車のガソリンに払った興味や金銭を、美術に集中させてきた」から、問題がなかったそうです。すごいですよね。
そして、アート蒐集を続けるなかで、作家や美術の関係者たちとの交流、そして、自分と同世代の作家が生み出した作品の価値が定まってくるプロセスを楽しんできたのだ、そうです。

私の印象に残っているのは、作品を蒐集することだけが目的ではなく、「作品をその都度、消費してきた」という言葉です。
何かを蒐集し、自分のコレクションを作り上げようとすると、そのものを収集すること自体が目的となりがちです。
そうすると、最初はそのものの素晴らしさを所有したい、と思っていたにもかかわらず、その素晴らしさを楽しむ余裕もなくなってしまいます。
そして、そのものの素晴らしさを判断する基準が、そのものの希少性だったり、価格だったりと、内面的なものではなくなってしまう。
結果、外面的な要素や評判に振り回されて、そのものを蒐集することが苦痛になったり、億劫になったりしてしまう。
美術品に限らず、牛乳のキャップやお酒の蓋、その他もろもろ、子供のときに、何かを集めたことがある人は、きっと覚えがあるのではないでしょうか。
だからこそ、何か自分が素晴らしい、と感じるものを手に入れたら、その素晴らしさをしっかりと味わいたいものです。
それこそが、「消費する」ということであり、「消費する」贅沢なのだと思います。
その消費する贅沢を知る山本冬彦さんが、現在、力を入れていることが、

アート購入することを消費の選択肢の一つすること

です。
たとえば、小旅行する、ブランド品を買う、という行為と同じようなこととして、アートを購入する、という感覚を日本の人たちに持って欲しい、とお考えです。

趣味も多様化し、興味も金銭も特定の分野に集中する、という現象はなかなか起こりにくい昨今、現代アートを中心として価格の安い作品であれば、手軽に楽しめる趣味として定着するチャンスは大きいかもしれません。
私も、山本冬彦さんのお話を聞いていたら、ほんのちょっとですが、「気に入った作品がとっても安かったら買ってみようかな」と考えてしまいました。

とはいえ、なかなか購入までは踏み切ることができませんので、現代アートに興味を持ってもらうために周囲の人を誘って美術館へ行く、という形で、山本冬彦さんの目標の手助けをしたいと思います。

<マイアートは、高松和樹の『How to make/作り方』>
影絵を思わせる作品。
モノトーンの小さな作品で、自分の寝ているロフトの壁にかけてみたい、と思わされました。
もっと他の作品も生で鑑賞したい、と思っています。

【会場情報】
◆佐藤美術館-山本冬彦コレクション展
http://homepage3.nifty.com/sato-museum/exhibition/index.html
◆芸力-山本冬彦コレクション展
http://geiriki.com/ten/detail.cgi?id=10021349

【作家情報】
◆高松和樹(Kazuki Takamatsu)
・距離感主義
http://kazukitakamatsu.web.fc2.com/

【次の予定】
◆「エレメント 構造デザイナー セシル・バルモンドの世界」展 @東京オペラシティ
http://www.operacity.jp/ag/exh114/
◆TAB-「エレメント 構造デザイナー セシル・バルモンドの世界」展
http://www.tokyoartbeat.com/event/2009/3B6D

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私がスクラムマスターを目指すわけ

1月 16, 2010

2010/1/14(木)に、「Agile2.0 ~ アジャイルなチームで何を提供する?」という勉強会に参加してきました。

実はこの日は、純粋な飲み会としての新年会を開催予定でした。
が、その会をほぼ無理やり「勉強会に参加する新年会」と内容を変更して、参加してしまいました。
参加予定だった方には、少々、申し訳ないことしてしまったと思います。

しかし、この会に参加して、わたしが、なぜスクラムマスターになりたい、と考えていたのかがはっきりしました。
それは、スクラムなどアジャイルという開発手法が、

開発者と顧客をつなげることで楽しく良いシステムがつくれる

と感じたからだったのです。

<顧客不在の開発現場>
私の周囲には、コーディングが好きな方とても多いです。
それは老いも若きも関係ありません。
なかには、60代になってもコーディングが好きで、現役でコードを書く方々がいます。

そうしたコードを書くのが好きな人から頻繁に聞く言葉が、「ものづくりが好きだ」という言葉です。
この言葉の背後には、「良いものをつくることは正しい」というすばらしい信念があります。
が、はっきり行ってしまいますが、私は、この言葉が嫌いです。
というのは、この言葉には、「技術的に卓越してさえいれば良いものをつくれる」という信念も含まれているように思えるからです。

そもそも、良いもの、とはいったいなんでしょうか。
それは、人の役に立つものであり、人に喜びを与えるものであり、金銭的な意味をふくめて人に利益を与えるものだと思います。
もっと簡単にいえば、その人、組織にとってプラスの利益を与えるものです。

良いものをつくるには、「どのような人たちに、どのような価値を提供するか」というコンセプトが先に必要です。
それは、ソフトウェアにしろ、サービスにしろ、例外ではありません。
このコンセプトを欠いてしまうと、ターゲットのいないアプリケーション、サービスを作り出してしまいます。
そして、存在しないターゲットを無理やり後付けでつくり、そのターゲットに無理やり売りつけなければならくなってしまいます。
こうした事態を避けるためには、そのソフトウェア、サービスをつくる人たちは、それを誰に届けるのか、どのようなものとして届けるのか、ということを知らなければいけません。
簡単にいえば、顧客を知らなければいけません。

私が「ものづくりが好きだ」という言葉の背後に、「技術的に卓越してさえいれば良いものをつくれる」という信念も含まれていると感じるのは、「顧客を知ろうとしない人たちが頻繁にこの言葉を使う」という印象を持ってしまったためなのです。
というのは、「ものづくりが好き」「コーディングが好き」という人は、概して顧客と会うのを嫌がります。

コーディングが好きか否かにかかわらず開発者が、顧客に会うのを嫌がる、という心理は理解できます。
開発者と顧客との関係の現実は、バグなどのトラブルに際してのみ顧客から連絡があり、問題のあったプログラムの開発に携わった開発者が技術的な説明をするために対応する、というものです。
普段から接することなく、顧客も開発者も、問題が起きたときにだけ、お互いを意識する関係なのです。
こうした関係である以上、たしかに顧客に会いたい、という考えも思いも浮かんでこないことは、むしろ自然なことです。

問題はこうした関係によって嫌な思いをした開発者たちが、顧客に会うことを嫌がり、自分の考える良いものとしてのソフトウェアを作り上げようとしてる、ということです。
つまり、顧客不在のシステム開発をしようとしていることが問題なのです。

顧客不在の開発を生み出す、顧客と開発者の関係は、ソフトウェア開発の構造的な問題です。
ソフトウェア開発の規模が巨大化することによって、処理するべき作業が多くなりました。
その打開策として、作業をフェーズに分けたり、フェーズごとに作業を担当する人間を分けたりしてきました。
その結果、大きなソフトウェア開発に携わる人々は、自分の作業を明確にでき、その作業を効率化し、作業の質を向上させることできました。

しかし、それは局所的な最適化にとどまることもあり、フェーズごとの作業自体や、異なるフェーズに携わる人たちの間に溝を生みました。
また、開発側だけでなく顧客側も大きな情報システムを管理するために、システムを管理するためのシステム部門を立ち上げるようになりました。
利用者、その間のシステム部門、そのシステム部門と話すプロジェクト管理者、そしてプロジェクト管理者と話す開発者、という関係が出来上がってしまったのです。
そうして、開発から忘れ去られてしまったものの1つが顧客です。

このような顧客不在の開発に携わりながら、「ものづくりが好きだ」といい自らの技術を高めようという人たちは、もしかしたら陶器や刃物などの工芸品をつくる職人のような匠と自分の姿を重ねているのかもしれません。
ひたすら自分の技術を磨き上げ、わが道を行く。
もっというと、人里を離れた山の中で、自分が良いと信じるものをつくり続ける、孤高の姿を思い浮かべているかも知れません。
ですが、この昔ながらの職人、匠の姿は完全に間違っています。

工芸品とは、そもそもが日常生活に使用される生活用品として先にあり、その後、芸術として再発見されたものだからです。
日常生活に使われるものでしたから、そのものに求められる機能も、非常にシンプルです。
包丁は肉や野菜を切るものであり、皿は料理を盛り付けるものです。
そして、こうしたシンプルな機能を満たす良いものをつくることすら、それを利用する人たちを離れてつくられてきていません。

日々の生活を送る人たちを、間近で見ていた腕の良い職人たちが、

・こんなものを切るには、刃を長さをもっと長くしたほうが良いな
・ああした料理を盛り付けるには、もっと底を深くしたほうが良いな

と、役に立つ、より良いものを目指してつくり続けてきたのです。
ようするに優れた職人は、顧客の近くにいることで、顧客が求める機能、ときには顧客自身が認識していない要望すら実現し、それを洗練させつづけてきたのです。
そして、ついには機能と美を備えた工芸品といわれるまでの「良いもの」を作り上げたのだと思います。

一方、顧客不在のソフトウェア開発は、顧客からの要求を満たすことはありません。
そうした環境下で開発者求めるの良いものとは、コードの美しさ、構造の美しさ、というものです。
しかし、それは、教科書的、利己的な開発者の美学によって定められてものに過ぎません。
システムを利用する顧客からしてみればむしろ表面的な美のみを追求しているかのようです。
もちろん、優れた機能、サービスは、美しいソフトウェアの構造美しいとコードから生まれる、ということは否定しません。
しかしながら、顧客を知らずして美しい構造と美しいコードは実現できません。
なぜなら、ソフトウェアの構造やプログラムのコードの元になる仕様は、顧客の要望をいかにみたすか、によって変化するからです。

顧客の要望をいかにみたすか、という問いは、まずは顧客が何を望んでいるのかに答えることであり、次にはどのように解決するのかに答えることです。
これらの答えは、単に技術に卓越し、知識にとんだ開発者によってのみ生み出されることはありません。
というのは、たとえ同じ問題を抱えている顧客がいても、解決する際に異なる制約があり、すべての顧客に、一様な解決方法が提示できないからです。
一方の顧客は時間はあるけれどお金はない、もう一方のお客は時間はないけどお金はある、というときに、はたして同じ答えがでてくるのでしょうか。
きっと、ソフトウェアの構造もプログラムの仕様も異なってくるに違いないのです。
ですから、美しい構造のソフトウェアを、美しいコードでつくりたいのであれば、顧客を知る必要があるのです。
そして「ものづくりが好き」「良いものを作りたい」「コーディングが好き」という開発者ほど、顧客から離れてはいけないのです。

ソフトウェア開発においても、顧客を無視して今まで開発が行われてきたわけではありません。
開発側、顧客側の双方で取り入れられた分業制という構造によって、少しずつ開発というフェーズから顧客が離れていってしまったのです。
そして、顧客が離れていった結果、開発に携わる人から顧客、という存在が忘れ去られてしまったのです。
また、顧客の役に立ちたい、と思う人は、開発現場にとどまることを許されず、顧客が近くにいるフェーズのプロジェクト管理や仕様書の作成にしか携われなくなってしまったです。
結果、いまソフトウェア開発に携わる人々も顧客も苦しんでいます。

<アジャイルで顧客と優秀な開発者を開発現場に呼び戻す>
顧客不在の開発による不幸な状況を打開するためには、開発現場に顧客を呼び戻す必要があります。
そして、それを可能にするのがスクラムなどのアジャイルという開発手法だと私は感じているのです。
というのは、アジャイルでは、「真の顧客の参加」として、顧客が開発現場にいることが推奨されているからです。

そして、開発現場に顧客が参加していることで、優秀な開発者が現場にとどまり続けることができる、とも感じています。
なぜなら、顧客が開発現場にいるのですから、顧客を知るために開発現場を離れ、プロジェクト管理だけ、仕様書の作成だけをやる必要はありません。
分業制では、優秀な開発者が顧客を知ろうとしたとたん、作業フェーズを飛び越えるため開発現場を離れて、管理フェーズにまで行かなければ行けませんでした。
その状況を変え、優秀な開発者が開発現場にとどまり、顧客の要望を掘り下げ、価値のあるシステムをつくることができれば、開発者にとっても顧客にとっても有益です。
開発側は、早く、品質の高い高付加価値のシステムを開発でき、顧客側は自らの要望をかなえるシステム、サービスを享受することができるからです。

もちろん、アジャイルという手法が、ソフトウェア開発や私自身が抱えている問題をすべて解決するものにはなりえません。
しかしながら、顧客の不在による問題を改善し、優秀な開発者を開発現場に残すことができる、という点で、私はアジャイルという開発手法にとてもおおきな期待と魅力を感じています。
そして、その開発現場において優れた良いシステムがつくれる、顧客と開発者が満足できる楽しい開発現場がつくれる、と感じているのです。

アジャイルによって開発に顧客を呼び戻し、楽しく、真に良いものづくりをする、このために私はスクラムマスターを目指すのです。

長々と書きました。
今回はこのあたりで。

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「NO MAN’S LAND」へ行ってから、「医学と芸術」を関係を学び、「Luxury」なファッションの奥底の欲望を目の当たりにする

1月 11, 2010

<年末年始は3つの展覧会へ行きました>
あけましておめでとうございます。
本年も、ぼちぼちとアートと書評、ときどきシステム開発についてエントリを書いてゆきたいと思います。
よろしくお願いします。

早速ですが、昨年末から今年に入って、
「NO MAN’S LAND」展
「医学と芸術」展
「ラグジュアリー」展
と3つの展覧会へ行きました。
今年最初の記事として、紹介したいと思います。

◆「NO MAN’S LAND」展

解体前のフランス大使館を舞台にして多数の作家が作品を発表しています。
膨大な数の作品と多数の鑑賞者が会場を埋め尽くしており、とても熱気がありました。
日本人だけでなく、フランス人を中心として外国の方が老若男女問わず会場にいらっしゃいましたが、とかく若い人たちが多く、まるで学園祭のような雰囲気でした。

そもそも会場のフランス大使館は、普段、立ち入れる場所ではありません。
そのような施設を自由に歩き回ることができる、というのも貴重な体験です。
一室、一室が何に利用されていたか、を想像しながら歩き回るのも楽しいです。

なによりも、作品を自由に写真に収められ、しゃべりながら鑑賞できるというが、展覧会の魅力です。
普通の展覧会では作品を写真に収めることはできません。
くわえて、会場では静かにしていなければいけない、ということもあります。
しかし、この「NO MAN’S LAND」展では、それらを気にする必要がまったくありません。

私は独りで行きましたが、これから会場に足を運ばれる方は、是非、お友達などと大人数で行くことをお勧めします。
作品について、あれこれ感想を言いながら、気に入った作品があれば写真に収めて楽しむ、というのが、この展覧会の楽しみ方だと思います。

◆「医学と芸術」展
※写真をとりわすれたうえに、パンフレットも忘れました。。。

大晦日に、会場に足を運びました。
レオナルド・ダ・ヴィンチや円山応挙の古典的な作家の作品から、デミアン・ハーストや蜷川実花のような現代のアーティストの作品が、広い会場を埋め尽くしていました。

生と死という、誰にでも関係があり、かつ非常に重たいテーマなだけに、鑑賞し終わった直後はとても疲れてしました。
とくに、死者の骸骨をサンドペーパーに削りつけて製作された作品には、とてつもない迫力を感じました。
最初は、白く長い巻物が壁にかかっているだけだと思い、深く注意もせずに流して鑑賞していました。
しかし、作品の横に製作時のVTRが流れており、これを見てびっくりしました。

そのVTRには、作家のサンドペーパーに頭蓋骨を一心不乱にこすりつける姿が映っていたのです。

作家の姿を見た途端に、いままで特に自分の心に迫ってくることのなかった作品が、急に迫力を帯びてきました。
再度、引き返し作品をじっくりと鑑賞してしまいました。
作品に製作するために頭蓋骨を手に入れることのできる環境、頭蓋骨を削り続ける作家の心境を想像すると、少し前まで単なる白い巻物だったものに、非常な重みを感じました。

そして、作品だけを観ても、作品の魅力や価値を正しく理解できるわけではない、ということを再確認させられました。

多数の作品、なにより、生と死、とりわけ死についてフォーカスを当てた作品の展示は、鑑賞疲れを起こすほどの見ごたえがあります。

◆「ラグジュアリー」展

2010/1/9(土)に足を運びました。
昨年からずっと行きたい、と思っていたのですが、なぜかタイミングが合わずに足を運べずにいました。
そろそろ会期も終了、という情報を見て、ついに観に行くことにしました。

会場は、人が少なく閑散としていました。また、来場者は大半が女性でした。

展示の内容は、副題として「ファッションの欲望」と掲げられているとおり、

自分を輝かしいものにしたい
美しく飾りたい
自らの権力を誇示したい

という人の欲望がどのようにファッションに反映されているか、がよく感じ取ることができます。

金や銀、宝石などの希少な素材を使用した高価なドレスや特定の人のためだけに意匠を凝らして、一点しか作成されなかったドレス。
それらを観ると、希少性、という価値をもった衣装を身にまとうことで、自らの価値を高めたい、という欲望をひしひしと感じます。
とくに、メゾン・マルタン・マンジェラによる作品は、割れた皿やカンヴァス、靴紐や櫛など、珍しさと一点ものという希少性を追求するためにそんなものまで使うのか、と感心させられます。

会場内には、自らを特権的、特別な存在であることを誇示したい、という思いが込められた衣装をまとったマネキンたちが整然と並べられており、とても迫力がある展覧会になっています。

「NO MAN’S LAND」展は今月末まで、「医学と芸術」展は来月末までやっています。
しかし、「ラグジュアリー」展は今週末までしかやっておりません。
興味を持っていただいたら、是非、早めに展覧会まで足を運んでみてください。

駆け足での紹介となりましたが、どれも楽しい展覧会でした。
それでは、本年もよろしくお願いいたします。

【会場情報】
◆「No Man’s Land」展 @フランス大使館 ※現在はホームページが閲覧できませんでした(2009/12/27)
◆TAB-「No Man’s Land」展
http://www.tokyoartbeat.com/event/2009/4B1A

◆「医学と芸術」展 @森美術館
http://www.mori.art.museum/contents/medicine/index.html
◆TAB-「医学と芸術:生命と愛の未来を探る ~ダ・ヴィンチ、応挙、デミアン・ハースト」展
http://www.tokyoartbeat.com/event/2009/ABA5

◆「ラグジュアリー」展 @東京都現代美術館
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/105/
◆TAB-「ラグジュアリー:ファッションの欲望」展
http://www.tokyoartbeat.com/event/2009/1231

【次の予定】
◆「山本冬彦コレクション」展 @佐藤美術館
http://homepage3.nifty.com/sato-museum/exhibition/index.html

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