Archive for 2010年12月

最初の線をひくために

12月 30, 2010

今年の最後のエントリだけれども、「です・ます」調をやめてエントリを書きたい。
結構、長い間ブログを書いてきたけれど、やはり違和感があるからだ。

普段の話し言葉が「です・ます」調なら良いのだけれど、そんな丁寧な話し方はしない。
そのため、「です・ます」調の文章を書いていると素直に思ったことは書けないと感じている。

今回は、特に自分の思ったことを素直に書きたいと思ったので、タイミングとしては中途半端だけれども、「です・ます」調をやめてエントリを書こうと思う。

最近、優れたプログラマになるにはどうしたら良いか、ということを考えるようになった。
きっかけは単純で、仕事でスキルチェンジを迫られたことだ。

僕は、つい半年ぐらい前まで、仕事では汎用機でCOBOLを書いていた。
それが、今年の7月からJavaやらCentOSやらEclipseやら、俗にオープン系という技術を仕事で触るようになってきた。
現在では、C#とVisualStudioを使って、いままで汎用機で動いているプログラムをオープン化する仕事をしている。

こうしたスキルチェンジを迫られる事態は想定していたため、私生活ではほそぼそとJavaやEclipseを触っていたけれども、役に立つものではなかった。

わかっているつもりになっていたことが多く、プログラムを書く指は動かない。
動くプログラムを書くことができても、「もっと良い書き方があるのではないか」という猜疑心にかられ、書いたプログラムの品質に自信がもてない。

今でも、自分の生産性は高いのか、保守性を満たしたプログラムを書けているのか、という疑問を押し殺しながらC#のコードを書いている。

そんな状態だからこそ、先輩だろうが後輩だろうがお構いなしに、「優れたプログラマ」だと思う人のあとを追って、本を読んだり、プログラムを書いたりしてきた。

そんななか、僕なりに「優れたプログラマ」と感じる人、感じる人なので厳密な定義などないのだけれど、お手本にしている人、アドバイスを求める人たちの共通はだた1つだ。

それは、プログラムを書くことを恐れない人、だ。

僕は汎用機で仕事をしながら、オープン系の技術を私生活で学んできた。
それは、上でも書いたようにいずれ迫られるであろうスキルチェンジに備えていたからだ。

だから、TDDも、テストの自動化も、リファクタリングも、オブジェクト指向も、本を読んだり、勉強会で人の話を聞いたりして学んできた。

本で読んだり、人の話を聞いて学ぶことは悪いことじゃない。
でも、本を読んだり話を聞いたりして学んでいるだけだ、座学だけだと、頭でっかちになって、行動が伴わなくなるのだ。

座学だけだと思考だけが先行する。
分かったような気になって、自分が優秀になったよう気分になる。

そして、頭のだけにある理想の状態にとらわれる。
頭のなかにある理想から離れるのが怖くなる。理想を壊すことに恐れを感じる。

最初からうまくやりたい。
失敗して笑われたくない。
妙なプライドに取りつかれて、最初の一歩が踏み出せなくなるのだ。

妙なプライドにとりつかれたプログラマは、プログラムを書くことを恐れる。
特に新規開発でまっさらな状態からプログラムを書くことを恐れる。

最初の一手、最初の一行から「うまくやりたい」という妄執に駆られるからだ。

しかし、ちょっとプログラムを書いている人はみんな知っている。

最初から完全なプログラムを書くのは無理だ。
プロジェクトが進むにつれ、システムが少しずつ出来上がってくるにつれ、プログラムはその目的に合わせて洗練されてくるものだ。

ただ、最低を避ける必要はある。
プログラムを書き慣れていないと、勉強を怠っていると、この最低を避けることすら難しい。
今の僕は、「最低のプログラムを書いていないか」ということを気にしているレベルだ。

そして、自分の仕事は最低ではないか、という心配もプログラムを書くことを恐れさせる。

プログラムを書くには、勇気が必要だ。
うまくやりたいというプライドを捨て、失敗するかもという恐れを踏み越え、プログラムを書く勇気。

優れたプログラマは、「うまくプログラムを書かなくては」というプレッシャーをいとも簡単に乗り越える。

優れたプログラマは、頭の中にだけある理想に逃げ込まず、理想を実現しようとする勇気を持っているのだ。

優秀なプログラマでもなく、勇気ももたない、技術力ももたない僕がプログラムを書くのはどうしただろうか。
それには2つのことが役にたった。

1つは矛盾するようだけれど、本を読んだり、人の話を聞いて理想を学ぶことだ。
理想を知ることは、最低を避けることに重要だ。
無知なままだと、容易に最低なプログラムを生む。
プログラムにたいする無知は、生み出されたプログラムが最低であることに気づく機会を与えない。

もちろん、理想を知っているだけでは最低を避けることはできない。
最低を避けるという行動を起こすためには、方法を知っていることが不可欠だ。

その方法を与えてくれるのがもう1つのこと、TDDとリファクタリングだ。

もう1つといっているにも関わらず、TDDとリファクタリングの2つを挙げているのは、TDDにとってリファクタリングが不可欠な要素だからだ。

TDDによってテストコードを書いておき、リファクタリングによってシステム全体を考慮してプログラムの構造の改善をはかる。

こうした手法をプログラミングに取り入れるメリットは、間違いを犯すことへの心理的なハードルを下げることだ。
「まず、書いてみよう」という勇気をプログラマに与えてくれるのだ。

テストコードがあれば、いざプログラムを洗練しようとしたときの補助をしてくれる。

テストコードを実行しながらプログラムを修正したり、リファクタリングを進めれば、失敗をしたときにすぐに教えてくれる。
失敗しすぐに気づき、やり直せる。

だから、自信をもってプログラムを見直し、修正できる。
自信をもってプログラムを見直し、修正できるのだから、最初の一歩を踏み出すのも気が楽になる。

また、リファクタリングをする機会を設けておけば、振る舞いを変えず、システム全体を意識しながらプログラミングを進められる。

プログラミングを進めてゆくごとに、プログラムが洗練されてゆくことを実感できる。
プログラマは自信をもって、最低を避け、徐々に完全へと近づいてゆける。

もちろん、ここでいう、完全には正確な定義はない。
自分の理想、自信をもってリリースできる、ぐらいの意味だ。
ただ、自信をもってプログラマはプログラムを書いてゆくことができる。

やり直しがしすい、失敗がしやすいという状況こそが、まっさらな状態からプログラムを書く勇気を与えてくれるのだ。

そして、この勇気こそがプログラマを優秀にしてくれる。
というのは、プログラムを書かずして、優秀なプログラマへといたる道はないからだ。

優秀なプログラマがプログラムを書かなくなることはあっても、プログラムを書かずして優秀なプログラマにはなれない。

本で読んだだけでは、人の話を聞いただけでは、プログラムを書くことの難しさ、プログラムを書くときの心理、思考は理解できない。

一流の選手が書いた本を読んだり、話を聞いただけで、平凡な一般人が一流な選手になれないのと一緒だ。
実践を伴わない理論の学習は、何も生み出さないし、成長を促しはしないのだ。

優秀なプログラマの定義も、優秀なプログラマへといたる道筋は僕にはよくわからない。
ただ、ひとつ言えることは、優秀なプログラマはプログラムを書くことなく育たない、ということだ。

子供の頃に、真っ白な紙を渡されると、なんの恐れもなく僕らは絵を描いていた。

しかし、成長するにつれ絵にも上手い下手があり、自分がうまく描けないことを知っていると、真っ白な紙に最初の線を引くのが恐ろしくなる。

最初の線をどこに引くかに迷い、一線を引くのに恐れすら感じる。

馬鹿にされないか。
笑われないか。
失敗しないか。
恐れが自分の行動を妨げるのだ。
こうして、僕らは喜んで絵を描く習慣を失ってゆく。

プログラムにせよ、他の行動にせよ、「うまくやらなきゃ」という意気込みこそが緊張を生み、行動することを妨げる。

学習を通じて、理想の姿を知っているからこそ、自分自身がその理想に至っていないことを知っているかこそ、行動しなくなる。

しかし、何かを学び、極めようするならば、失敗をすることを恐れてはいけない。
最初からうまくやろうなどと、気負いすぎてはいけない。

むしろ、最初からうまくやろうとするのではなく、徐々にうまくやろうと考えればいいのだ。

失敗への恐れから行動しないよりも、失敗前提でも行動した方がいい。
それだけ行動は尊い。

行動は、現実に影響を与え、成功と成長の端緒となるからだ。

今年は多くの時間を学習に費やした。
そして、学習だけに時間を費やす虚しさを知った。

なにより、学習を行動に活かす難しさと尊さを知った。

来年はその難しく、尊い作業に注力したい。
すでにちょっとしたものは頭のなかにある。

自分の頭のアイデアを行動として、サービスとして少しずつ表に出してゆく。
来年は、行動の年だ。

電子書籍の話を聞いてきたのでメモをする

12月 23, 2010

 ふたたび電子書籍に関するお話を聞く気かを得たので、その際に特に「意外だな」と感じた点をまとめようと思います。

 紙の本にこだわりがない
 アメリカでは車通勤が多いためオーディオ・ブックという「本を聴く」という習慣があります。
 また、階級社会である欧州ではそもそも本屋がなく書籍が気軽に買えない地域もあるようです。
 そのため、電子書籍が登場した際にも、あらたに対応すべき媒体が登場した、と感覚が強いといいます。
 ようするに、新たな消費スタイルへの対応、という感覚なのでしょう。

 過去、数度の書籍の電子化の波があったと言われますが、一番大きな違いは良質なネットワークでしょう。
 最新のKindleの3G対応モデルでは3Gのネットワークがタダで利用でき、ネットワークさえつながれば「いつでも、どこでも」本を購入し、読めるようになっています。
 良質なネットワークに支えられる利便性は、本が電子されるメリットの1つです。

 こうした利便性を日本ではなかなか感じることはないかもしれません。
 日本では至る所で書籍が販売されています。
 キオスク、駅ビル、スーパー、百貨店など、「駅前」など商業施設がならぶ場所にはからなず本が販売されています。

 首都圏などの都市部にいると、本が好きな人なら「ちょっと時間が空いたら本屋で暇つぶし」というのが普通の行為です。
 しかし、日本でも気軽に欲しい本が買えないという地域も存在するでしょう。

 電子化されコンテンツが流通される姿を変えると、こうした今は見えていない読者、消費者を掘り起こすきっかけになるかもしれません。

 取次の売上情報を多く握っている
 書籍が電子化され、流通が変わると中抜きされる筆頭は、取次だと私は考えていました。
 しかし、どうやらこの考え方は間違っていました。
 出版業において取次は、とてもおおきな存在のようです。
 
 そのひとつの要因は、取次が「どの本が、いくら売れたか」という売上情報をたくさん持っているということです。
 どのような本がいくら売れたのか、という情報は出版社がしっかり握っているのだと思っていましたが、そのようなことはないようです。

 現状ではこうした情報は取次が一手に握っており、出版社まで正確な情報が下りてくるのは稀のようです。
 また、取次がそのような情報に基づいて「こんな本を作りませんか?」という提案もないようです。

 取次が、書籍の実売情報に基づいて、企画、提案をするような存在になるとしたら、取次もまたコンテンツの作り手として、電子書籍の世界でも存在感を持つことになるかもしれません。

 出版社はコンテンツの保持者ではない
 電子化されても結局は「コンテンツの質がよければ売れる」と言い切って良い部分があります。
 電子化されればコンテンツがコピーされるおそれはありますが、コピーするより買うほうが楽な仕掛けを作れてしまえば、なんとかなる、という考え方が商品を売る側にはあります。

 ですので、消費者が「このコンテンツならこれだけ払ってもいいな」と感じる質のコンテンツがあれば商売は成り立つと考えられます。

 出版の外側にいる私からすれば、そのコンテンツを一番持っているのは出版社である、と考えていました。
 が、どうやら出版社の方には、その意識はないようです。
 コンテンツはあくまでも、作家にある、と考えているようです。
 そして、出版社は校閲や編集、マーケティングや広告などをコンテンツを持っている作家に提供している存在だと、考えているようです。
 出版社がコンテンツを握っている、と考えていない以上、電子化は不安のタネでしょう。

 たしかに、どのような、作家であろうとも「編集」という作業自体を1人でやろうと思わないでしょう。
 また、編集者というパートナーの存在をいらない、とは考えないでしょう。
 出版するという作業は、1人でやるには重すぎるのです。

 が、この編集を頼み、共に働くパートナーは、なにも既存の出版社や編集者でなくて構わない、という流れが出てくることも予想できます。
 とくに、法律上はたとえ紙の本で出版されていても、同じ作品を電子書籍として出版可能になっています。
 コンテンツの作り手がこうした権利を行使してもおかしくはないわけです。
 
 すでに言い古されていることですが、書籍の電子化により、コンテンツを作り手、コンテンツを持つものが力を持ち始めると同時に、力を持ったプレイヤーたちが市場を作ってゆくかもしれません。

 以上が、おはなしを聞きつつ、つらつらと考えたことです。
 取次、というプレイヤーがどのように電子化の流れに関わってくるのか、というところに個人的に面白みがあるように感じています。

電子書籍の現在について話を聞いてきた。

12月 10, 2010

どこまでブログとして書いて良いかわからないのですが、ちょっとした縁で電子書籍を出版されている方々とお話しする機会を得ました。
具体的な話はちょっとぼかしながら、そのときのことをまとめてみたいと思います。

本当は技術のお話をお聞きする予定だったのですが、「何故やっているんだろう」「どういった点に魅力を感じているんだろう」などの質問が多かったです。
ここは、今からなにかやりたい!と考えている人たちと、もうすでにやっている人たちの大きな違いだろうと思います。
実際に、販売サイトを作ってもいなければ、本を編集したこともない、となると、技術ベースの話はしにくかったのかな、と思います。

私は、実際に販売も編集もしたことがありません。
ですから、どうしても電子書籍に関わっておられる方たちの動機や書籍との関わり方に目が向いてしまいました。
そもそも、どのようなツールや環境で編集をされているのか、という最低限のことすら聞いていない、という体たらくで、反省しております。

実践にまで至っていない身としては、電子書籍に関する自分の考え方や見通しについて、実践者の知恵や考え方を知ることで、実践にいたるための度胸というか、きっかけを貰いたかったのだと思います。

お話を聞いて認識を改めたことは、「出版が手軽になる、リスクが小さくなる」ということが、書く人と編集する人などの作り手の人たちにとって非常に恩恵が大きい、ということでした。

電子書籍の編集という作業に深くどころか、ほとんど触れなかったために、実際の作業量はわかりません。
しかし、印刷しなくて良い、という点が圧倒的な手軽さ、リスクの低さ、を繋がっているようでした。

また、権利的には紙で出版されている書籍を電子化して出版することは問題がない、という点や分量的には薄い本でも出版できる、など権利的にも精神的も、作業量的にも書き手の人の自由度が大きい部分も、魅力に繋がっているようでした。

出版が手軽になること、そして、リスクが小さくなる事の魅力を聞いていておもったことは、
「電子書籍には挑戦的な作品や実験的な作品が多く流通するだろうな」
ということでした。

まず、電子書籍の手軽さは、「同人誌」という分野に広がってゆくでしょう。
いままでは、「印刷代が。。。」と思っていて、出版できなかった人、出版できないと思っていて作品を作らなかった人たちが、出版するようになるでしょう。
そして、こうした傾向は、プロの作り手にも広がってゆきそうです。
紙に印刷して出版できるほどのページ数がない作品、自分ではぜひやってみたい企画だけども出版社が乗り気ではない作品、こうした作品が出版されるようになってきそうです。

もうひとつ重要なお話、つまり「お金が儲かりそうか」というお話を聞いてきました。
正直、品性がないな、と思っていたのですが、一番興味のある部分だったので、聞いてみました。
趣旨としては、上記の話とも繋がっていて、「書き手、編集など作り手が儲かりそうな感覚がありますか」という点を知りたかったのです。

結果は、十人十色、というか、それぞれご意見が違っていて、
「儲けを上げるのは難しい」
「今は儲からないが、儲かる仕組みが作られてくるかも」
「未来永劫儲からない」
というものでした。
作り手に得があるから、というよりは、カオスな状況を楽しむ、という感覚が強いのかな、と思いました。

もうひとつ印象深かった点は、電子書籍というものを広がりとして捉えていらっしゃった(ように感じた)ことです。
よく言われることですが、紙と電子は相反するものではなく、
コンテンツも、流通経路も、広がろうとしているなかで、
「何を作るのか」
「どうやって流通させるのか」
「どうやって表現するのか」
を実践を通じて模索されているのかな、と思いました。

なによりも、印象深かったのはみなさんがすごく楽しそうに活動について、話されていたことです。
本や読書、書くことが好きで、その一環として電子書籍という分野にもかかわっておられる、という印象が非常に強かったです。

今回は、お話を聞くばかりでした。
またの機会があったときには、私自身が実践を通じて学んだこと基礎に、情報交換ができるようになっていたい、と思います。
実践へと向かうためのやる気を得た、というのが、一番の収穫だったと思います。

みなさま、ありがとうございました。

電子化されることで書籍の最小単位はどうなるのか

12月 5, 2010

書籍が電子化されるにあたり、一番、悩ましい問題は、
「書き手にとって電子化されるメリットはなにか」
ということがわからない、ということにあります。
ここでいう書き手は、というと本や雑誌の記事を書く人たちだけではありません。

仮に、本や雑誌が文字情報を中心に構成されるもの、と考えてみます。
本や雑誌などは、文字情報をつくりあげる作家やライターと呼ばれる人たちがテキストを書けばおわりではありません。
表紙を考えたり、や本文の文字情報を見やすいように配置するレイアウトを考えたり、文字情報を装飾するといわれる行為が行われます。

こうした行為にたずさわるひとたちを、書き手と呼ぶとすれば、編集やそれに携わる人たちにとっても、書籍が電子化されるメリットは描けないのです。
ようするに、電子化されることによって、書き手たちが
「得をする。稼げる。」
と思わされるような、将来像が見えてこないのです。

たとえば、よく言われるのは「印刷が不要になるで絶版がなくなる」という意見があります。

いままで作家や編集者が思い入れがあり、売りたくて仕方がない作品があっても、作品を印刷しなければ売れませんでした。
そして、印刷の発行部数は「1冊から」というわけにはいきません。
1度に印刷する数は、おそらくロット単位できまり、たとえば最低100冊から、ということになってしまいます。

ようするに、「この本がほしい!」と1人の読者が熱烈に思っていても、そして、出版社が知っていたとしてもその本は印刷されません。
出版社がたとえ文化の担い手であっても、商売をしている以上、売れるかわかならい99冊の本の在庫を持つわけにいきません。

しかし、印刷が不要になればどうでしょうか。
先に最低100冊として仮定した数量が販売の制約にはなりません。
ほしいと思っている1人読者に1冊の本が販売できるのです。
今まで売りたくても売れなかった書籍、売れるかどうかわからない書籍を売ることができるようになるのです。
こうしたことは、書き手たちにとって、ビジネスチャンスを生み出します。

ただ、どれだけ絶版本が読者に求められているでしょう。
そして、絶版本を販売できることがどれだけ書き手の儲けにつながるでしょうか。
もしかしたら、出版社など大きい単位では儲けを上げることは可能かもしれません。
しかし、書き手の個人が生活できるほど稼げる、という未来は見えてきません。

ここでデジタル化された商品を扱う類似のビジネスを考えてみます。

最初に思い浮かべられるのは「音楽」でしょう。
しかし、デジタル化されて以後の音楽業界は「元気がない」という印象が非常に強くなっています。
すくなからず、電子化の恩恵を受けたのは、音楽を配信している一部の企業だけが儲けているように見えます。

音楽業界が陥った状況に、書籍も陥るのではないか。
一番利益を確保すべき書き手が確保できず、それを配信しているだけの企業が儲ける状況になるのではないか。
それは、苦労して創り上げた作品、コンテンツが搾取がさくしゅされるのではないか。
こうした疑念や不安を、書き手の人たちは抱いているように思います。

そもそも、音楽業界には、どうしてこのようなことが起きたのでしょうか。
『ブックビジネス2.0』のなかで、津田大輔さんは次のように仰っています。

本とCDが決定的に違う点の一つは、音楽の場合、CDからネット配信への意向によって、「アルバム」というものが完全に解体されてしまったことです。
アルバムという、十数曲の単位で売るからこそ付加価値があったものが、一曲一曲へとバラバラに解体されてしまったことは悲劇ですが、本の場合、そのようなことは起りにくい。(p.26)

アルバム、という販売形態がなくなったことが、CDの衰退を引き起こし、さらには音楽業界の衰退を招いたのか、という点はわかりません。
ここで考えたいのは、「本は解体されないのか」ということです。

たしかに、文芸、文学作品のように、起承転結のようなつながりや流れる作品は、解体されないでしょう。
はじめの部分だけ読みたい、買いたい、という欲求は起こりづらいと思います。

しかし、研究、調査目的などの場合は、別です。
論文やレポートはもちろんのこと、文芸、文学作品も、自分の興味ある部分にすぐにアクセスしたい、と思うものです。
自分が調査していること、自分を支持する意見や事例、自分とは対立する意見や事例を読み、引用出来ればそれで十分なのです。

もしかしたら、文芸、文学作品も例外ではないかもしれません。
たとえば、今はお金がないから1章だけ読みたい、作家の力量は1ページだけ読めばわかるからその部分だけ読みたい。
もっといえば、短歌集などであれば、この一句だけが読みたいし、引用したい。
本を解体し、消費したい、という欲求はあるのです。

CDがアルバム、という「1つの流れがある」作品が解体されたことにより衰退したのであれば、この未来が書籍に訪れてもおかしくはありません。

しかし、書籍が解体されつくされる、というのは過剰反応でしょう。
というのは、書籍はアルバムCDと同じではないからです。
そして、書籍は、CDで言えばアルバムの単位ではなく、シングルとよばれる単位だと思うのです。
1つの章や文章を切りだして販売することは、ある1つの曲のAメロ、Bメロ、サビの部分を抜き出すして販売することに等しいのです。

音楽においても1つの曲を解体し、消費するという文化はあります。
DJと呼ばれる人が、ある曲の良いところを1部分ずつ切りだして、新たしい音楽をつくります。
しかし、販売する単位をDJの人たちが求めるような、1曲さらに切り刻んだ単位で販売することはありません。
なぜ、切り刻んで販売されないのか。これは良くはわかりません。
要望がない、というのが一番の理由なのかもしれません。

音楽おいては、一曲を解体して利用される文化あるようですが、書籍は、DJの人が使うように「自分が使う一部分だけ」を取り出して読めたとしても意味がありません。

1つの文章は、その前後の文脈によって、意味や解釈が全く異なるかもしれないからです。
文芸、文学はもちろんのこと、研究、調査目的で読まれる論文やレポートも全体を通して読むと、ある抜き出された文章が矛盾した意見を述べている、ということはありうることです。

とくに、研究や調査が目的であるならば、誤解釈はあってはなりません。
たとえダイレクトに自分の興味のある情報を手に入れても、その解釈に間違いがないか、その書籍の前後は必ず目を通さなければなりません。
では、前後とはどこか、その対象は「書籍全体」になってしまう傾向があります。
どこに、その文章と矛盾したり、その文章を否定したりする箇所があるかはわからないからです。
だからこそ、一つの文章のために、書籍全体を手に入れる、ということは十分に考えられます。

読者が書籍を消費するとき、詩的な1つの文章、短歌集の一句、自分の意見を支持する一節、最小の単位は1つの文章かもしれません。

しかし、販売における最小単位はまた別です。
1つ物語、情報を1つの書籍にする。
このような形態ならば書籍は、音楽における一曲に比せられる、解体できないモノ、として捉えられうる大きな可能性を持っています。
音楽でいえばシングルCDのようなもとして、書籍は成立するのです。

しかし、その価値はアルバムCDのような比較的大きな単位で消費者には受け入れられる可能性があります。
このため、価格が今の音楽のよう一曲、100円のような低価格になる、という現象も起きないのではないか、と思っています。

今後の課題は、いかに電子化された本をネットワーク上で売るか、ということではないか、と考えています。
電子化されることで、流通がかわり、売り方が変ります。
これにどのように対応するのか、電子化においては、書籍が解体されることによる価格の低下よりも、この点が対処すべき大きな問題になるように思います。

なによりも、コンテンツとしての質を維持し続けることが、価格を維持し続けるための一番の口実になるはずです。
この点は、電子化されるか否かによる部分ではないでしょうが。

とはいえ、CDにおいてアルバムが解体されたように、ある作家の作品を体系的に集めた「全集」という形態は滅んでゆくのでしょう。
それは寂しい気もします。