Archive for 2011年1月

まとまっていないアジャイル・チームビルディングのまとめ

1月 29, 2011

先々週のことになるだろうか、アジャイルチームビルディングというイベントに参加してきた。
無料で行われたイベントとしては大変、豪華で、ジョハンナ・ロスマンやエスター・ダービー、角征典さん、平鍋健児さんと日本のアジャイル界隈の人間なら知らぬ人はいない人たちが参加したイベントだった。

そもそも、良い仕事は優秀なチームによって行われる、というのは、開発手法はもとより業界の別を問わない考え方だ。
むしろ共通的な思想と言っていい。

そして、「どうやって優秀で素晴らしいチームを作るか」というのもまた、業界の別を問わない永遠に取り組むべき問題の1つだ。

今回のイベントの名前はアジャイルチームビルディングとなっているが、
講演者の話は、良い仕事をするために、「どのようにしたら良いチームが作れるか?」という疑問に答えようとするものだったと思う。

ジョハンナ・ロスマンは、個人の能力をどのように評価するか、すなわち、優秀な個人をどのように集めるか、のための6つの判断方法を提示した。

一方、エスター・ダービーは、チームがはまりがちな罠を紹介して、優れたチームをまとめあげるための方法を示した。

良いチームをつくるためには優秀な個人が必要なことに加え、優秀な個人をチームとした形作るのはまた別の作業だ。
ジョハンナとエスターの話は、まさにチームビルディングについて包括的な説明をしてくれた。

ジョハンナは、アジャイル開発に適した能力もつ人材を見抜くための6の判断方法を示した。
・共同作業が出来る人か
・助けを求めることが出来る人か
・自らすすんで、小さく作業をして頻繁なフィードバックを得られる人か
・自らすすんで、現状に適して十分な行動を取れる人か
・順応性のある人(Adaptable people)か
・自らすすんで、専門外の仕事ができる人か

英語が苦手なので不正確な情報になるかもなぁ、と悩んでいたら、どなたかのTwitterのTLに発表に使われたと思われるの資料のURLが流れてきた。
正確な情報は下記を参照してほしい。
http://www.slideshare.net/johannarothman/six-behaviors-for-agile-team

ジョハンナが与えてくれた重要な示唆は、practice(プラクティス)とbehavior(行動)は違う、というものだ。

たとえば、「TDDをやっています」、「ScrumのDailyMeetingをやっています」といったところで、「実際にどのような行動を指しているか」は異なる。

TDDならRed→Green→Refactorのサイクルを愚直に回しているか。
DailyMeetingなら3つのこと、昨日やったこと、今日やること、抱えている問題、を話せているか。
こうした行動は、プラクティスを使ったことがあります、といわれても確認はできない。

僕のチームでもDailyMeeting、朝会をやっているが、3つのことを言うことを徹底できていない。
でも、その会は「朝会」と呼ばれているので、参加者全員にとっては朝会、だ。

このように、プラクティスを使用した経験を尋ねると、文脈に違いによるミスマッチが発生する、ということだ。
なので、単純に「そのプラクティスをつかっています」という言葉はあまり意味が無い。

そのプラクティスを「どのように使ったか」という行動に注目する必要がある。
また、たとえプラクティスを使ったことがない人でも、プラクティスが目的とする結果、実績を残す行動をとれてれば良い。

TDDをしらなくても、Red→Green→Refactorのサイクルを愚直に回していれば良いわけだし、DailyMeetingについてもしかりだ。

ジョハンナのいうことをシンプルに言ってしまうと、その人の実績に注目する、ということだ。

こうした視点は、自分が「誰をチームに受け入れるか」というのにはもちろん、自分自身の力量を図るにも使える。
「実際に自分はどのように行動しているのか」が、すなわち自分の技量、才能の明確な判断基準になるはずだ。

エスターは、チームビルディングではまりがちな罠として、以下の項目をあげた。
箇条書きではわかりにくい、と思われるものは若干、補足した。
が、これも英語だったので、かなり不正確なのをご承知いただきたい。

・チームがチームじゃない
権限者などによって「チームになれ!」と言ってもチームになるわけではない。
固定的で、協調的に仕事をしているのが良いチームだが、そのようなチームばかりではない。

・チームに境界がない
チームにどのような権限や責任が付与されているかわからない。チームとその他をわける境界が低い状態。
もしくは、チームの外部から情報が入ってこない。チームとその他の分ける境界が高すぎる状態。

・リーダーが不在、もしくは支配的
決断ができない。もしくは、決断を特定の人物に依存する。

・言い合いが全く存在しない

・ひとつのアイデアしか持たない

・情報のシェアがない

・役割への信頼が無視される
文章と文章の意味合いともに不明確。すみません。

エスターが示した罠を知っても、「この罠にはまらないようにしよう」と身構えるためにしか使えないと思う。
どんな優秀な個人でも、優秀なチームでも多種多様な状況の変化にさらされれば、好調な状態を保つのは難しい。
むしろ、どんなチームであれ、罠にはまることは前提としたほうが現実的だ。

なので、自分たちのチームが「罠にはまっている」ということに素早く気づくために使える。
なんとなくチームがうまくいっていない、と思ったときに、「ぼくたちはこの罠にはまっていないか」と眺めるとよいかもしれない。

なお、話のなかでは罠にはまったら、どうやって対処するか、についてもエスターは言及していたが、ここでは割愛した。

ジョハンナとエスターの後に、角さんが紹介してくれたDevOpsという考えがとても印象に残った。
ジョハンナ、エスターの話を実践した後にたどり着く、1つの理想のチームの形を提示だと思う。

アジャイル、WFに関係なく、ワン・チームといったところで、システムを作る「開発」とシステムを動かす「運用」はわかれがちだ。
僕が務めている会社は小さいので、開発・運用をわける、というのあまり進んでいない。
が、チームの実情としては、システムの詳しい人に運用面を依存しがちだ。

チームとしては分かれていないが、人のレベルでは、開発と運用は分けられている。

角さんは、ご自身を開発者の視点におき、「運用」という仕事を「見えないゴリラ」として紹介し、開発と運用が分かれている現状に問題を提起した。
ちなみに、「見えないゴリラ」は下記の動画が語源になっている。
「白い人が何回パスをしているか?」に注目して動画を見ていると、ゴリラの意味がわかる。

DevOpsという考えは、開発が運用というゴリラの存在を認め、開発と運用を1つのチームとしてとらえようという考え方だ。

顧客から頻繁なフィードバックを得ようとすれば、開発者に運用を任せるというのは決して悪い考え方ではない。
顧客のクレームは、アイデアを得るという形でもプラスであろうし、品質の高いシステムをつくるという面でもプラスだ。
的を射た意見はシステムを洗練されせるのに役立つだろうし、品質の悪いシステムへのクレームは良いプレッシャーになると期待できる。

ただ、過ぎたるは及ばざるが如しで、あまりにも顧客にかかわっていると、開発の速度が落ちてゆく。
これを懸念して、どうしても運用と開発を分けたくなる。

また、運用面は顧客にかかわるだけでない。
むしろ、システムの安定稼働させるために、ネットワークやサーバー負荷などに対処するなど、俗にいうインフラ周りの仕事が運用の真骨頂といえる。
運用業務は、高度な専門的な知識が必要とされるため、知識自体が壁になって開発と運用がわかれてしまう。

開発と運用を運用を分けない、というのは耳心地のよい言葉なのだけど、タスクと知識が壁となって実現は難しいだろう。
が、たしかに理想のチームの姿だと思った。

最後に平鍋さんと松本さんがおはなししてくれたのだけれど、力尽きてメモが取れなった。

それにしても、こんなにためになる豪華なイベントが無料とは。
企画をしていただいた方には感謝。
日本は、良い国だ。

ちょっと追記:
外国の人の名前を書くときには、Mr.とかMs.などと付けるのは違和感がある。
しかし、日本の人の名前を書くときには、敬称として「さん」をつけたくなる。
ジョハンナとエスターの敬称は省いていますが、ちゃんと尊敬はしております。

なぜScrumか、なんとなく整理がついた。@イノベーション・スプリント

1月 17, 2011

2011/01/13(木)にイノベーション・スプリントというイベントに参加した。
このイベントはAgile、とりわけScrumに取り組もうとしている人間にとっては意義深いイベントだった。
Scrumというソフトウェア開発手法の開祖の1人であるジェフ・サザーランド。
そして、そのScrumの考えの源となった『NewNewProductDevelopmentGame』という論文を発表した1人、野中郁次郎。
その両者が同じ場で話をする、というものだったからだ。

野中郁次郎は、当時、優れた製品を生み出す企業を研究し、知と思想を体系化した。
そして、ジェフ・サザーランドは野中郁次郎の知と思想を実践し、その経験を通じてScrumという知と思想を生み出した。

優れた企業のなかに暗黙化されていた知を野中郁次郎が形式知化し、野中郁次郎によって形式知化されて知を用いたジェフ・サザーランドは行動という暗黙知を経て、Scrumという新たな暗黙知を創り上げた。
野中郁次郎がいう知のスパイラルアップを体現した関係を築き上げた両者の邂逅だった。

だから、Scrumという開発手法に心を寄せるもの1人としては、楽しみでしようがないイベントだった。
このような場を作ってくれた、@kawagutiさんには感謝してもしきれない。

以下は、野中郁次郎やジェフ・サザーランドの言葉についての、僕なりの都合の良い解釈だ。
だから、彼らが使う言葉や用語の意味について、必ずしも正しい解釈はしていないと思う。
でも、このイベントに参加して僕なりに彼らの言葉を解釈したことで、「なぜScrumなのか」ということに整理がついたとおもってる。
整理がついた、といよりは、一段落ついた、という感じかもしれない。
「楽しく」仕事すること、いいかえれば「楽しく」お金を稼ぐことに、なぜScrumを用いようと思ったのか。
それは、

Scrumの根底にイノベーションを起こすための勇気が溢れているから

だ。

Scrumの源流にある論文のタイトルは『NewNewProductDevelopmentGame』だ。
これは当時、革新的な新製品開発を行った企業の取組を研究し、その知を文章化したものだ。形式知化したものだ、といっても良い。

ここは想像でしかないが、ジェフ・サザーランドは、論文のなかでもとりわけ、「革新的な新製品開発」という文脈こそがソフトウェア開発に求められると思ったのではないだろうか。
単なる、と言っては語弊があるが、すでに形も製法も決められているプロセスを改善する方法では、ジェフ・サザーランドには響かなかったのではないだろうか。

なぜなら、新たなソフトウェアは現存しないと考えられるからこそ、フルスクラッチで開発されるからだ。
開発のプロセスには多数の不確定要素があり、開発されるシステムには、他のシステムにはない機能、強みが求められる。
ソフトウェア開発では、決まりきった製品を生み出すことが目的にはならない。
革新的なシステムが生み出されることが目的にある。
だからこそ、プロセスも決まりきった手順を最適に処理するものは求められない。
革新的なシステムを目指すために不確定要素に柔軟に対応するプロセスが求められる。

ジェフ・サザーランドにとって、ソフトウェア開発とはつねに革新的なシステムを通じて、イノベーションを生み出すことを目的としているのだ。おそらく。

これは必ずしも現実のソフトウェア開発とは一致していない。
僕たちの開発は、新しいものを作るよりも既存のシステムを保つことが多い。
また、僕たちが作るシステムは革新性などなく平凡だ。
作られたシステムが、明日の人びとの価値観や行動を変えるようなイノベーションを巻き起こすこともない。

なぜか。
答えは単純だ。
僕らはすべてのソフトウェア開発においてイノベーションなど求めていないからだ。
革新的なソフトウェアを求める前に、契約、納期、コスト、権限、責任、こうした現実に対応することを優先しているからだ。
ソフトウェア開発そのものに、イノベーションが求められていないわけではない。現実のまえに、僕らが妥協しているだけだ。

システム開発そのものに革新的なシステムを生み出すこと、そして、革新的なシステムがイノベーションを起こすことが求められているはずだ。
もっとも、現実という場は、勇気と情熱をもって、革新的なシステムの開発に挑むことに、とてつもなく困難であることは認めるが。

野中郁次郎もジェフ・サザーランドも、イノベーションという困難な現実へ勇気をもって取り組もうとしている。
それを感じたのは、野中郁次郎の

「大丈夫か?」などという質問には、論理的に答えられない。

という言葉だ。
なんとも身も蓋もないのだが、真実だ。
数秒後は予測できても、数日後に何が起こるのかなど、予測できない。だからこそ、これから起こることすべてを盛りこんで計画などできない。
「大丈夫か?」という質問には論理的には答えられない、という真実への言及は、予測不可能な現実を受け入れながら、目的の達成に取り組むという困難を引き受けることを示しているように思う。

「僕たちのプロジェクトはこのまま進んでゆくべきだろうか」
こうした質問にはどのように応えるべきだろうか。
野中郁次郎もジェフ・サザーランドも同じ答えに到達している。

すなわち、現実に学び、経験的な知を得るべきだと。

自分のアイデアや考えを実践に移す。
そして、素早く成功と失敗というフィードバックを通じて、自らの認識、情報、知識をアップデートしようとする。
今、自分たちがいる現実から、新たな認識、情報、知識をえる。
これが、イノベーションへいたるための知のつけ方だ。

ただ、これには勇気が必要だ。

不安定な現実を受け入れる勇気が必要だ。

人は、自分が制御できない不確定な状況にいたいと思わない。だからこそ、予測し、計画しようとする。
そして、ときには「現実は予測可能で、制御可能だ」と思い込もうとする。

ただそれは頭のなかの現実であって、自らが身を置いている現実ではない。

自らが身を置いている現実は、予測不可能で、都合よく制御できない不安定なものだ。
不安定な現実に身を置くことを覚悟して受け入れる、こうした勇気が現実から知を得るには不可欠だ。

また、現実から学ぶには、自己否定を行う勇気も必要だ。
自らが置かれた状況が悪くなると、まず「今の状態が悪い」ということを受け入れらない。

そして、状況が悪いということは、自分の行動や考え方に問題がある、という現実を受け入れらない。
たしかに現実は制御不能だ。だからこそ、制御可能な自分の思考や行動を変えるしかない。
こうした自明のことに気づけない。

現実から学ぶということは、自己否定を含む過程を経るものだ。
自分の思考と行動を改める必要がある。そうでなければ、学びはない。

だからこそ、自分にとって都合の悪い現実でも受け入れるという勇気も必要なのだ。

そして、他者、自分以外のものを受け入れる勇気も必要だ。

イノベーションは新たな知の創造を意味する。
ただ、新たな知は1人では生み出せない。
なぜなら、知は人と人の関係性、また文化などのつながりのなかにあり、人や文化が存在する場について知らなければならないからだ。
そして、場について知るには、その場にいる他者と関係を結ぶことが不可欠だ。

イノベーションは新たな知を創造し、人々の行動を変えるものだ。
その場にある人々の考え方や行動を知らずに、文化を知らずに、変化を起こすことなどできない。
知らないものは変化させることなどできない。
だからこそ、他者を知り、受け入れる勇気をもつことが必要なのだ。

しかし、他者を受け入れるとは他者の言うことすべてを受け入れることではない。
現実に学び、経験的な知を得るとは単なる自己否定では終わらない。

自己否定を超えた先に、これ以上、否定し得ない自分がいる、つまり、全人的な知だ。
ある人はそれを美学と呼び、ある人はそれを哲学と呼ぶ。
それは譲ろうにも譲ることのできない、自分自身だ。

他者を受け入れるということは、自分がもっているこうした全人的な知を他者にも認めるということだ。
そして、互いに全人的な知をぶつけあったさきに見出される知、場を共有する人びとが共通にもった主観、これこそがイノベーションといわれるべき新たな知だ。

自分自身の知識と常識だけに固執し、他者を受け入れられないのであれば、新たな知の創造はできない。
だからこそ、自分自身の知に価値を置きながらも、他者の知にも敬意を払う。
他者を受け入れて新たな知を創造する。そのために、周囲の人達とのコミュニケーション、インタラクティブなかかわりを大切にする。

野中郁次郎のいった、身体的な知、心身一如、知的体育会系という言葉。
ジェフ・サザーランドは、対面で話すことが最もブロードバンドなコミュニケーションという言葉。
こうした言葉に、イノベーションへいたるプロセスにおいて、他者を受け入れる勇気の必要性が集約されている。

また、ポジティブであろうとする勇気も野中郁次郎とジェフ・サザーランドの根底には存在する。

野中郁次郎もジェフ・サザーランドも情熱的であり、ネアカだ、印象を受けた。
ふたりともウィットに富んだ話し方をするし、かならず、希望的な物の見方を提示する。
「今はダメでも、こうすればよくなる」という話をする。
何事かを成し遂げる人は、やはり、行動原理として世の中や現状をポジティブにとらえようとしている。

最近、John Cacioppoという人が「人の脳はネガティブなことに反応しやすい」という研究結果を発表した。
http://www.lifehacker.jp/2010/11/101104brain_positive_negative.html

研究の詳細は上記のURLをたどっていただくとして、研究結果は1つの事を示唆していると思う。
それは、ネガティブなものの捉え方は反射的であり、ポジティブなものの捉え方は事実の反省や意志に基づいている、ということだ。

現実に起こりうる不都合なことを、そのまま受け入れてしまうとすべてを悪い方向に考えてしまいがちだ。
たしかに、起こってしまった不都合なことが自分自身にどのような影響をおよぼすかを考え、悪い結果を否定せずに受け入れることは重要だ。
しかし、不都合なこと、悪い結果をそのまま受け取り、意気消沈するだけでは駄目だ。

不都合なことや悪いことはどうしても起こる。
しかし、悪い結果をうけたあと、どうやってそのことに対応するか、反応するかは、自分自身でコントロールできることだ。
そこで、「今後どうすれば自分にとって都合の良く自体を変えられるか」、「悪い状況の中で自分に好都合に働くことはなにか」を考えることが必要だ。
ポジティブに考えられる意志こそが、悪い状況を抜け出すための原動力になる。

物事をポジティブにとらえる、というのは、Scrumで提唱されてはいないし、プラクティスにも、フレームワークとしても定義されてはいない。
しかし、野中郁次郎は「できそうにないことでもできる」と言ってしまえ、という。
ジェフ・サザーランドは「情熱をもって理想を追求しろ」という。
両者の言葉は異なるけれど、言っていることは一緒だ。

不可能だと思うこと不可能なものだと放置するな、可能なものと捉えて行動しろ、と彼らは言っているのだ。

反射的にネガティブな現実を受け入れるのではなく、さらにさき、ネガティブな現実にポジティブな要素を見出す意志を彼らは強調しているのだ。

最後に、なによりも、野中郁次郎もジェフ・サザーランドも、よい仕事は綺麗事と理想論が生み出すと再認識させてくれる。

たしかに現実的な問題に対処する必要はある。
野中郁次郎もイノベーションには、政治もこなせる強かさが必要だと言っていた。
しかし、僕らあまりにも現実を受け入れすぎていて、綺麗事と理想論を忘れすぎている。
政治やら駆け引きやら、責任やら、現実のネガティブな部分を見すぎている。

たとえばアポロ11号。
月面着陸という人類の偉業をなしたロケットであり、同時に政治的駆け引きの産物でもある。

大国間の対立という政治の力に影響を受け、権謀術数が渦巻いただろう開発現場において、当時のエンジニアたちは、到達不可能だと思われた月を目指し、実現した。

野中郁次郎もジェフ・サザーランドも、現実の困難な状況において、勇気をもってイノベーションを、月を目指せ、といっている。
そして、そのための知恵と勇気を僕らに与えてくれる。
だから僕は、Scrumに惹かれ、実践を目指しているのだ。

人類を月へ運ぶような大きなチャレンジに関わる機会は、現実には、そう何度もないだろう。

でも、数少ないチャンスが訪れることを信じよう。
かならず、チャンスをつかむ準備をしよう。
チャンスを掴んだら、勇気をもって月を目指そう。
月を目指す仲間と、Scrumを組みながら。

自分はどれだけ自分の考えを周囲に話しているか

1月 10, 2011

2011年を迎えたことを期に、過去のブログのエントリを見返してみた。
去年の初めでも
「行動を。アウトプットを」
という目標をかかげていたようだ。

やはり、自身の思考優先で腰が重いことは改善必須、ということだろう。

このブログは、数少ないアウトプットの場として、今年もゆるゆると、週に1度ぐらいのペースでブログを更新してゆきたい。

最近、反省させられることがあった。
それは、周囲とのコミュニケーションの薄さ、だ。

それを実感したのは、普段はあまり話もしない、会社の偉い人たちが集まる会議に参加したときだ。

会社にいると上司、とりわけ経営陣への不満をよく耳にする。

不満の中には悪口もあったりするが、内容は総じて
「上司や経営者は、経営、会社にある問題を理解していない」
というものだ。

そうしたあとに、
「もっと営業に力を入れる」
「景気のよい業界にアプローチする」
「プロダクトの質を上げる。そのために教育を整える」
などの持論が語られる。

おもしろいのは、そうした持論が的を射ていない、ということではなく、経営陣は意外とそうした一般社員が抱えている持論をすでに理解している、ということだ。

もちろん、これは会社の規模や組織の風土に依存する部分がある。
僕のいる会社は60名程度の社員数で、比較的、社長を含め上司との距離が近い。
だからこそ、社員が考えているような問題意識を経営陣ももっている、ということが起こるのかもしれない。

が、問題は「共通の問題意識や解決方法を考えている」という認識を、社員も経営陣ももっていない、ということだ。
端的にいってしまうと、お互いに「わかってない」と思っているのだ。

もしも、コミュニケーションがしっかり取れていれば、共通の認識がある、という事実を共有しているはずだ。
そして、共通の認識があれば、そのもと問題解決にあたれば良い。

しかし、明らかに会社の状態は正反対だ。
お互いがお互いの思いを理解できていない。

なぜ、こうしたことが起こるのだろうか。
おそらくお互いが、お互いの考えていることを話す機会がすくない、ということ問題なのだ。

そもそも自分の考えを周囲の人に伝えていないのだ。
それは、分かりやすく伝えていない、などという高度な問題ではない。
単純に量の問題だ。

自分が考えているアイデアや認識している問題や課題、というのは、往々にして語られない。
しかし、自分では周囲には伝えているつもりになる、という妙な性質をもっている。

というのは、自分がもっているアイデアの重要性や認識している問題や課題は、常に考えている人にとっては認識され続けているからだ。

そのため、日頃から組織や経営について、自分がもっているアイデアの重要性や認識している問題、課題の解決の必要性を感じ続けている。
同時に、自分のアイデアを活かすべきところ、問題、課題そのものを眺め続けているのだ。

アイデアを考え、問題や課題を認識し続けている人にとって、会社や経営はそれを「わかっていて無視し続けている」ように感じるのだ。

だから、アイデアの重要性や問題や課題の解決の必要性に、周囲の人が気づかないハズがない、という妙な勘違いに陥る。
そうすると、自分が捉えている問題や課題について、自分が話さなくなる。「すでにみんな気がついているはず」だし、おそらく「自分と同じ考えをもっているはず」だからだ。

周囲に話さないのは、勘違いが原因だなだけではない。
単純に面倒くさい、という心理もあるだろう。
自分の考えをまとめて話す、というのは手間がかかる。

自分が「正しい」と考えることを論理だって話そうとすると、準備が必要になる。
自分の話が伝わりやすいように話の構成を考えたり、自分の話の根拠となる事実や資料を集めたりする必要がある。

話の構成を考えたり、資料を準備したりする手間のことを考えると、人に何かを伝えようとして話すことは、非常に面倒くさく感じられる。
自分の考えを話す前に、話すことへの手間に目を奪われ、話すことへの心理的なハードルが上がってしまうのだ。

また、拒絶への恐怖もあるあるだろう。
自分が話した内容について、聞いている人たちが全面的に納得してくれることはまずない。
自分の考えの根拠について疑問があれば質問されるだろうし、感情的な不満が起きれば論理的な理由なく否定される。
こうした反応があれがいいほうで、単純に話を聞いてくれず無視されることもある。

せっかく自分が考えたことを聞いてもらえないストレスというのは、思いのほか大きい。
自分が考えに考え抜いた事柄だと、否定や無視はもとより、疑問ですら拒絶と感じ取ってしまうこともある。
否定や無視、疑問が起こっている時点では、自分の考えは受け入れられておらず、受け入れられていない、ということに非常に強いストレス、不満を感じるのだ。

強いストレスと不満を感じる状況は、なんども経験したいものではない。
自分の考えを拒絶されることへの恐怖は、話す気力を奪ってしまうのだ。

なにより、1度は話しても2度、3度と同じ話はしたくないものだ。
拒絶されるような恐怖はなんども味わいたくないし、同じ話をしても飽きられてしまうかもしれない。

自分の考えは「十分、周囲の人たちに伝わっている」という勘違いが起きがちであることや話すこと自体が面倒くさいし、聞き手の拒絶に耐える勇気を必要とすることから、1度は話しても、2度、3度と話さないのだ。

1度の話しただけでも、話し手からすると、勇気ややる気を振り絞って話した、という心理的な満足がある。
だらか、その1度を過剰に評価しがちだ。

しかし、聞き手としては1度聞いただけは忘れてしまう。
また、話を覚えていも、話し手の本気度、つまり「ほんとうにその考えを実行しようとしているのか」という点に疑問をもつ。

そして、聞き手は「もっと話を聞きたい」などと思わないし、言わない。
聞き手の話への無理解は、話したと思った考えを無視した言動をとられる、といった部分にあらわれる。
そうした場面を見かけて初めて、話し手は「伝わっていない」という事実を知る。
また、理解していない聞き手に失望を覚えもする。

自分の考えを理解していほしいと思うなら、話し手はもっと自分から積極的に、ことあるごとに自分の考えを周囲の人たちへ伝えなかればならい。
周囲の人たちから「もういいよ」と言われるまで、「はいはい、こう言いたいんでしょ」と相手の口から自分の考えが出てくるまで、自分の考えを周囲に話し続ける必要がある。

自分の考えを理解してもらおう、と考えると、
「資料を動作ったら見栄えがいいか」
「この人にはどう伝えたら分かりやすいか」
などという量とは関係ない、質の部分を気にしがちにように思う。

質も重要なことは認めるが、そもそも量が足りていない、という事実を見逃しがちかもしれない。
もしも、自分の考えが周囲から認められていないな、受け入れられていないな、と思うなら、「どれだけの人たちに自分の考えを話したか」を考えてみて方が良いと思う。

自分の人生経験や自分のことを話すことが好きな人は多い。
しかし、自分の考えたアイデアや問題意識を話すことが好きな人はそう多くない。

だから、周囲の人達から自分の考えを理解されていないな、と思ったら、自分が周囲に向かって「どれだけの回数話したか」と、量について思い直すことは反省してみたほうが良さそうだ。