自分はどれだけ自分の考えを周囲に話しているか

2011年を迎えたことを期に、過去のブログのエントリを見返してみた。
去年の初めでも
「行動を。アウトプットを」
という目標をかかげていたようだ。

やはり、自身の思考優先で腰が重いことは改善必須、ということだろう。

このブログは、数少ないアウトプットの場として、今年もゆるゆると、週に1度ぐらいのペースでブログを更新してゆきたい。

最近、反省させられることがあった。
それは、周囲とのコミュニケーションの薄さ、だ。

それを実感したのは、普段はあまり話もしない、会社の偉い人たちが集まる会議に参加したときだ。

会社にいると上司、とりわけ経営陣への不満をよく耳にする。

不満の中には悪口もあったりするが、内容は総じて
「上司や経営者は、経営、会社にある問題を理解していない」
というものだ。

そうしたあとに、
「もっと営業に力を入れる」
「景気のよい業界にアプローチする」
「プロダクトの質を上げる。そのために教育を整える」
などの持論が語られる。

おもしろいのは、そうした持論が的を射ていない、ということではなく、経営陣は意外とそうした一般社員が抱えている持論をすでに理解している、ということだ。

もちろん、これは会社の規模や組織の風土に依存する部分がある。
僕のいる会社は60名程度の社員数で、比較的、社長を含め上司との距離が近い。
だからこそ、社員が考えているような問題意識を経営陣ももっている、ということが起こるのかもしれない。

が、問題は「共通の問題意識や解決方法を考えている」という認識を、社員も経営陣ももっていない、ということだ。
端的にいってしまうと、お互いに「わかってない」と思っているのだ。

もしも、コミュニケーションがしっかり取れていれば、共通の認識がある、という事実を共有しているはずだ。
そして、共通の認識があれば、そのもと問題解決にあたれば良い。

しかし、明らかに会社の状態は正反対だ。
お互いがお互いの思いを理解できていない。

なぜ、こうしたことが起こるのだろうか。
おそらくお互いが、お互いの考えていることを話す機会がすくない、ということ問題なのだ。

そもそも自分の考えを周囲の人に伝えていないのだ。
それは、分かりやすく伝えていない、などという高度な問題ではない。
単純に量の問題だ。

自分が考えているアイデアや認識している問題や課題、というのは、往々にして語られない。
しかし、自分では周囲には伝えているつもりになる、という妙な性質をもっている。

というのは、自分がもっているアイデアの重要性や認識している問題や課題は、常に考えている人にとっては認識され続けているからだ。

そのため、日頃から組織や経営について、自分がもっているアイデアの重要性や認識している問題、課題の解決の必要性を感じ続けている。
同時に、自分のアイデアを活かすべきところ、問題、課題そのものを眺め続けているのだ。

アイデアを考え、問題や課題を認識し続けている人にとって、会社や経営はそれを「わかっていて無視し続けている」ように感じるのだ。

だから、アイデアの重要性や問題や課題の解決の必要性に、周囲の人が気づかないハズがない、という妙な勘違いに陥る。
そうすると、自分が捉えている問題や課題について、自分が話さなくなる。「すでにみんな気がついているはず」だし、おそらく「自分と同じ考えをもっているはず」だからだ。

周囲に話さないのは、勘違いが原因だなだけではない。
単純に面倒くさい、という心理もあるだろう。
自分の考えをまとめて話す、というのは手間がかかる。

自分が「正しい」と考えることを論理だって話そうとすると、準備が必要になる。
自分の話が伝わりやすいように話の構成を考えたり、自分の話の根拠となる事実や資料を集めたりする必要がある。

話の構成を考えたり、資料を準備したりする手間のことを考えると、人に何かを伝えようとして話すことは、非常に面倒くさく感じられる。
自分の考えを話す前に、話すことへの手間に目を奪われ、話すことへの心理的なハードルが上がってしまうのだ。

また、拒絶への恐怖もあるあるだろう。
自分が話した内容について、聞いている人たちが全面的に納得してくれることはまずない。
自分の考えの根拠について疑問があれば質問されるだろうし、感情的な不満が起きれば論理的な理由なく否定される。
こうした反応があれがいいほうで、単純に話を聞いてくれず無視されることもある。

せっかく自分が考えたことを聞いてもらえないストレスというのは、思いのほか大きい。
自分が考えに考え抜いた事柄だと、否定や無視はもとより、疑問ですら拒絶と感じ取ってしまうこともある。
否定や無視、疑問が起こっている時点では、自分の考えは受け入れられておらず、受け入れられていない、ということに非常に強いストレス、不満を感じるのだ。

強いストレスと不満を感じる状況は、なんども経験したいものではない。
自分の考えを拒絶されることへの恐怖は、話す気力を奪ってしまうのだ。

なにより、1度は話しても2度、3度と同じ話はしたくないものだ。
拒絶されるような恐怖はなんども味わいたくないし、同じ話をしても飽きられてしまうかもしれない。

自分の考えは「十分、周囲の人たちに伝わっている」という勘違いが起きがちであることや話すこと自体が面倒くさいし、聞き手の拒絶に耐える勇気を必要とすることから、1度は話しても、2度、3度と話さないのだ。

1度の話しただけでも、話し手からすると、勇気ややる気を振り絞って話した、という心理的な満足がある。
だらか、その1度を過剰に評価しがちだ。

しかし、聞き手としては1度聞いただけは忘れてしまう。
また、話を覚えていも、話し手の本気度、つまり「ほんとうにその考えを実行しようとしているのか」という点に疑問をもつ。

そして、聞き手は「もっと話を聞きたい」などと思わないし、言わない。
聞き手の話への無理解は、話したと思った考えを無視した言動をとられる、といった部分にあらわれる。
そうした場面を見かけて初めて、話し手は「伝わっていない」という事実を知る。
また、理解していない聞き手に失望を覚えもする。

自分の考えを理解していほしいと思うなら、話し手はもっと自分から積極的に、ことあるごとに自分の考えを周囲の人たちへ伝えなかればならい。
周囲の人たちから「もういいよ」と言われるまで、「はいはい、こう言いたいんでしょ」と相手の口から自分の考えが出てくるまで、自分の考えを周囲に話し続ける必要がある。

自分の考えを理解してもらおう、と考えると、
「資料を動作ったら見栄えがいいか」
「この人にはどう伝えたら分かりやすいか」
などという量とは関係ない、質の部分を気にしがちにように思う。

質も重要なことは認めるが、そもそも量が足りていない、という事実を見逃しがちかもしれない。
もしも、自分の考えが周囲から認められていないな、受け入れられていないな、と思うなら、「どれだけの人たちに自分の考えを話したか」を考えてみて方が良いと思う。

自分の人生経験や自分のことを話すことが好きな人は多い。
しかし、自分の考えたアイデアや問題意識を話すことが好きな人はそう多くない。

だから、周囲の人達から自分の考えを理解されていないな、と思ったら、自分が周囲に向かって「どれだけの回数話したか」と、量について思い直すことは反省してみたほうが良さそうだ。

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