Archive for 2011年5月

ワークショップによる「驚くべき学びの世界」@すくすくScrum

5月 29, 2011

社会人になると仕事そのものが一番の学習の場になる。
ビジネス書を読んだり、技術書の写経をしたり、勉強会に出席したり、というのは、補完的な行為にすぎない。

なにを補完するのか、といえば、仕事の場で学べないことだ。

同じことに取り組み続けると仕事はルーチン化する。
そうなれば行動はもとより、行動と共に思考もルーチン化する。

行動と思考のルーチン化によって、今までにない問題に直面してもよいアイデアがでず解決できなかったり、解決に時間がかかったりするかもしれない。

新しいことに取り組むための発想や意欲がかれてしまうかもしれない。

補完的な学習の場は、今の仕事では手に入れることのできない情報と発想を手入れるためにある。

だからこそ、一番の学習の場である仕事を離れて、補完的な学習だけの機会をもつことは価値のあることだ。

ただ、本を読んだり、実績のある人の話を聞いたりしても、あまり成長はない。

もちろん、外から情報を取り込むことは無価値ではない。

取り込んだ情報は、次に取り込んだ某かの情報とスパークを起こして、新しいアイデアや思考につながることもあるからだ。

ただ、取り込んだ情報を咀嚼して知識としたり、自身の成長につなげたりするためには、実践が必要だ。

とくに、あるエンジニアの人の事例を聞いた場合は、現場で事例と同じように行動してみることが重要だ。

とはいえ、それは簡単ではない。

仕事の場では、実践する機会がないことも多い。

権限がない、協力してくれる人がいない、という状況では、行動を取りづらい。

また、話を聞いただけで、ブログにまとめただけで満足してしまうこともある。

僕自身も、頭に入れた情報を血肉とするために必要な実践の機会を得られない、という焦りやジレンマのようなものを感じることは多い。

しかし、今回のすくすくScrumに参加して、焦りやジレンマの解決方法として、ワークショップが非常に有効だと感じた。

今回のセッションでは、Scrumのプロセスをお持ちいて、チームで紙飛行機をつくるというワークショップが行われた。

僕自身は参加していなかったのだけど、外から見ていて参加者の人達がすっっっごく楽しそうだった。

われ先にと紙飛行機をつくり、規定の距離を飛ばすために工夫を凝らす。

作った紙飛行機を力いっぱいなげる。走りまわる。

参加者の熱気で会場の温度があがったしまったので、エアコンの気温を1,2度下げる必要があるほど盛り上がっていた。

こうしたワークショップの盛り上がりは場の雰囲気を良くする以上の価値がある。

それこそが、頭にいれた情報を実践を通じて体で学べることだ。

Scrumの理論は非常に理解しやすい。しかし、実践はむずかしい。

それはScrum自体を行うこともそうだし、そもそも今の開発現場の開発プロセスにScrumを持ち込むことにもいえる。

しかし、ワークショップをおこなうと擬似的にでも、実践することが可能だ。

そして、頭で理解した理論を体感できる。

ゲーム中はみんなゲームに真剣すぎて、ワークショップの意味やScrumのプロセスの価値について考えなかったかもしれない。

でもふりかえったら、次のようなことをワークショップから学ぶことができたのではないかと思う。
・自主的に物事にとりくむとおもしろい
・思ってもない成功はオーバーコミットを招きやすい(過剰な成果を約束しやすい)
・ふりかえりによるフィードバックを行うことで同じ失敗をしなくなる

ほかにも、そもそもScrumという技法が自分の性格や自分の現場に合うかどうか、講師が説明しきれない点にも疑問をもったり、自分なりの考えをもったりできたのではないかと思う。

なによりも、現場に持ち帰ったときに擬似的にでも経験していると、体験談として理論の説明ができる。

他人の言葉ではなくて、自分の言葉で説明できる。それは、情報が知識となった証拠の1つだ。

ワークショップは、勉強会を情報収集の場としてだけでなく、知識として咀嚼する場に変貌させてくれる。

ワークショップには主体性と体感、頭だけでなく体を使った理解に到る機会がある。

今回、ワークショップの価値について考えさせられたのは、ワタリウム美術館で開催されている「驚くべき学びの世界」展を見たからだ。

展示が非常に素晴らしく、イタリアのレッジョ・エミリアという場所で子供たちどのように主体的に学習に取り組んでいるか、学びを楽しんでいるかがよく伝わってくる。

主体的に、全身を使って目の前のことに取り組みながら、自力で知識を獲得してゆく学習の過程を見て取れる。

子供のように学ぶことが自分たちに求められているか、それは良くは分からない。

でも、自分が関わる勉強会を、楽しく学ぶ子供たちのように、エンジニアが学べる場にしたいと思う。

その場づくりの有効な手段となる可能性を、ワークショップに感じている。

最後に。
今回、すくすくScrumははじめて日本橋を離れて渋谷での開催でした。
会場を提供いただいたのはECナビさんでした。
会場の素晴らしさにくわえて、社員の皆さんのホスピタリティが素晴らしく非常に助かりました。
ありがとうございました!

なにより講師の@Qooh0 さんありがとうございました!

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あーーーーーじゃいるぅと叫んだ午後に考えたこと

5月 22, 2011

昨日、2011/05/21にDevLOVEのHangerFlight SpringBombというイベントに参加した。

すでに素晴らしいレポートが参加者の人たちが書かれているので、興味のある人は、Twitterのハッシュタグ #devlove0521 を追いかけてもらいたい。

僕が参加したのは、第2波の松本屋さんのプロジェクト・ファシリテーションと、第3波の牛尾さんのシステム企画のセッションだ。

この2つのセッションを聞いて、変化と変容について、考えさせられた。

変化と変容というのは、松本屋さんのセッションでできた言葉だ。
聞いたときには、変化と変容という言葉の違いがよくわからなかったので、質問したところ、

・変化 … 世界が固定化していないため生じる現象
・変容 … 環境などの影響を受け入れて自らが変わること

というようなご回答を頂いた。(ご回答をいただいた言葉を僕なり解釈した表現です。あしからず。)

この言葉の定義から、変化には主体性は関係ないが、変容は自らが受け入れているということから主体性がともなう。

アジャイル開発では、「変化を包容せよ」といわれる。
しかし、ただ漫然と変化に影響されているだけでは、変化を包容することにはならない。

変化を包容するには、みずからうまく変化を受けれて、自らが変わること、つまり、変容することが必要だ。

自分自身の考え方や行動を変えない限り、変化に対応することはできないからだ。
同じことをやっていて結果を変えることはできない。

また、新しいシステムで変化を起こそうとする試みも、自らを変えること、変容が不可欠だと、牛尾さんのお話を聞いて思った。

システム開発の現状は、「なにかあたらしいこと」すなわちイノベーションを起こすような何かを開発することが求められている、という。

そのための方法して、牛尾さんが紹介されたのは、「どのようなシステムをつくるのか、ほしいのか」という部分を明確化するため、要求開発やCSPO、そしてUXDという方法だった。

それらの方法はすべからく新しいわけではなく、今まで存在してたものを明文化、仕組化したものかもしれない。

事実、牛尾さんはセッションでも、あたらしいものは「既存のもの同士をつなぎあわせたもの」だといっていた。

新しいものを生み出すときの問題は、既存のもの同士に新しい関係を見つけ出せるかだ。

木村屋がアンコとパンという既存のものを組み合わせて、まんじゅうでもおはぎでもない、アンパンをつくりだしたとき、そこに新しい関係が生まれた。

和のものとしてアンコ、洋のものとしてのパンという、両者の関係を分断した視点で見つめていては、アンパンは生まれない。

おそらくアンパンの最初に、頭によぎった仮定、

もしかしたら合うかも?

という自分の視点変化、考え方の変化を受け入れることでアンパンは生まれた。

変化を起こす、というとものすごく主体的でまるで自分が周囲に影響を与え、周囲を変容させているように感じる。
しかし、変化を起こしている時点で、自分自身の考えや物の見方がすでに変化、つまり変容している。

変化を起こす人、イノベーションを生み出す人というのは、はやいうちに最初に変化を包容し、変容した人といえるかもしれない。

そんなことを、「あーーーーーじゃいるぅ!」と叫びながら考えていた。

これからを観てみたいと思わされた@日本画ZERO展

5月 5, 2011

展覧会が行われている空間も小さく、作品も少ない。

そして、キュレーターの村上隆の野望である<『日本画科』を完全になくす>という可能性を感じさせる、力強さをもつ作品はなかったと思う。

一方で、<その学科の餌食になった検体のけなげで可哀想な足掻きをガチでみせるのが主旨>という目的を達成している展覧会だった。

しかし、日本画が<日本人が日本人である寄る辺であり得る芸術の総体>という定義ならば、あの小さい空間を満たした絵画は、僕にとっての日本画をよく表現しているように思えた。

すくなからず、僕が日本人として寄る辺としているのは、伊藤若冲や酒井抱一ではない。
彼らの作品は僕にとって、日本古来から受け継がれてきたという意味で日本画の代名詞だが、すでに、生活から遠く離れたところにあり、非日常だ。
見せてくれ、といわれたとしても、簡単に彼らの絵を見せることはできないし、説明もできない。

一方、僕が知っている絵のうまい、日本を代表する作家は、井上雄彦だったり、鳥山明だったり、という漫画家だ。
彼らの作品は日常にあり、現在も消費し続けている。
彼らの作品なら僕は説明できる。魅力についても、語ることができる。

僕がどちらの側に寄っているのは自明だ。
そして、そんな僕にとって、どちらが寄る辺としての日本画と呼ぶにふさわしいかも。

だから、展覧会に飾られた絵画が、日本画の萌芽と言われれば違和感はさほど感じない。

そんな作品群のなかで、僕が特に気に入ったのは、日比谷泰一郎の作品だ。
彼の絵画は、アニメっぽさを少し残した、広告のチラシなどを使ったコラージュ作品だった。

コラージュにつかわれたチラシなどの文字や映像のやかましさが、新宿や渋谷の広告看板やネオンのやかましさを彷彿とさせる。
その絵は、日本を代表する街を縮図であり、日本をよく表現しているように感じた。

彼のステートメントを読むとこれからに悩んでいるようだ。
勝手ながらぜひ、これからも作品を作って欲しいと思う。
http://hidari-zingaro.jp/2011/04/statement_hibiya/

最後にどうでもいいのだが、ちょっと気になったのは作品を観ている間、写真をパシャパシャと撮られたことだ。
使用目的もわからないし、気になった。
展覧会ではふつうのコトと考えるべきなのだろうか。

<>内は引用。引用は、下記から。
http://www.honeyee.com/feature/2011/nihongazero/contents.html

「本当は、動いている」存在を探してしまうフロア@アーティスト・ファイル2011

5月 1, 2011

ゴールデウィークをアート三昧で過ごそうと思い、国立新美術館で開催されている「アーティスト・ファイル2011ー現代作家たち」展に向った。

アーティスト・ファイル展は、僕が現代アートに興味をもつきっかけになった展覧会で、毎回、見にゆくのが楽しみにしている。


今回、印象深かったのは、松江泰治の作品だ。

松江泰治の作品は、街、採掘場、平原を航空写真のようにとても高い視点からとらえた写真だ。
写真の外にある世界さえ感じさせる雄大な作品だ。

一方で、人工的でジオラマをとらえたかのような非現実感をたたえている。
不思議な、不調和、不均衡を感じさせる作品だ。

松江泰治の作品が印象に残ったのは作品の魅力によるものだけではない。
その作品の見せ方、キュレーションによる力も関係している。

作品が展示されているフロアに入ると、まず、映像作品をみせられる。
そこでは、これから写真で見るであろう静止した風景が、動いている。
風景は採掘場で、動いているのは砂利のようなものを積んでいるトラックだったと思う。

そして、フロアの中央には、衛星から撮影されたような街中の人びとの写真が飾られているのに気づく。
プールサイドでくつろいだり、街中で犬の散歩をしたりしている人びとが、ぼやけた姿でとらえられている。
それをみると、広大な風景の中に、非常に小さな存在としての人を意識させられる。

これらの作品をながめあとに、パンフレットに目を落とした。
パンフレットには、「本当は、ずっと動いている」という赤い文字が書かれていた。

そして、雄大な風景の写真を見る。
そうすると、写真をとらえる自分の視点が変化してしまったことに気づいた。

写真という静止した世界に動いているなにか、を発見しようとするになってしまったのだ。
静止した街の中に人が、採掘場の中にトラックが、平原には動物が、映像作品のようにうごく姿を探してしまうのだ。

広大な景色を収めた写真のなかには、フロアの中心に置かれた衛生からの写真のように、小さいながらも動く存在がいるはずだからだ。

そんなふうに考えてしまうと、いままでゆっくりと眺めていた作品を落ち着いて鑑賞できなくなってしまう。

この写真のどこかで、人が、トラックが、動物が、動いているのではないか、と作品のはしばしまで目をはしらせるようになる。

大きな写真は全体を眺めようとすると、画面のなかでは小さい人やトラックはとらえることはできない。
一方で、小さい人や動物を見つけようとすれば、目を凝らして画面の1点に集中するため、画面の全体はとらえきれない。

結果、画面で動いているものをさがすために、せわしなく目を画面にはわせることになる。
そして、目をはわしている間じゅう、ずっと落ち着かない気持ちにさせられる。

フロアの最初に飾られた映像作品と「本当は、ずっと動いている」という一言に、僕の視点はすっかり乗っ取られてしまった。

キュレーションによって与えられた視点から、逃れることはできなかった。

松江泰治の作品が満たされた空間にいた間、僕はずっと、背中や腕にアリがはうような感覚に襲われていた。

僕はアリがはいまわる感覚から逃げ出すように、次のアーティスト、タラ・ドノヴァンのフロアへ向かった。