「本当は、動いている」存在を探してしまうフロア@アーティスト・ファイル2011

ゴールデウィークをアート三昧で過ごそうと思い、国立新美術館で開催されている「アーティスト・ファイル2011ー現代作家たち」展に向った。

アーティスト・ファイル展は、僕が現代アートに興味をもつきっかけになった展覧会で、毎回、見にゆくのが楽しみにしている。


今回、印象深かったのは、松江泰治の作品だ。

松江泰治の作品は、街、採掘場、平原を航空写真のようにとても高い視点からとらえた写真だ。
写真の外にある世界さえ感じさせる雄大な作品だ。

一方で、人工的でジオラマをとらえたかのような非現実感をたたえている。
不思議な、不調和、不均衡を感じさせる作品だ。

松江泰治の作品が印象に残ったのは作品の魅力によるものだけではない。
その作品の見せ方、キュレーションによる力も関係している。

作品が展示されているフロアに入ると、まず、映像作品をみせられる。
そこでは、これから写真で見るであろう静止した風景が、動いている。
風景は採掘場で、動いているのは砂利のようなものを積んでいるトラックだったと思う。

そして、フロアの中央には、衛星から撮影されたような街中の人びとの写真が飾られているのに気づく。
プールサイドでくつろいだり、街中で犬の散歩をしたりしている人びとが、ぼやけた姿でとらえられている。
それをみると、広大な風景の中に、非常に小さな存在としての人を意識させられる。

これらの作品をながめあとに、パンフレットに目を落とした。
パンフレットには、「本当は、ずっと動いている」という赤い文字が書かれていた。

そして、雄大な風景の写真を見る。
そうすると、写真をとらえる自分の視点が変化してしまったことに気づいた。

写真という静止した世界に動いているなにか、を発見しようとするになってしまったのだ。
静止した街の中に人が、採掘場の中にトラックが、平原には動物が、映像作品のようにうごく姿を探してしまうのだ。

広大な景色を収めた写真のなかには、フロアの中心に置かれた衛生からの写真のように、小さいながらも動く存在がいるはずだからだ。

そんなふうに考えてしまうと、いままでゆっくりと眺めていた作品を落ち着いて鑑賞できなくなってしまう。

この写真のどこかで、人が、トラックが、動物が、動いているのではないか、と作品のはしばしまで目をはしらせるようになる。

大きな写真は全体を眺めようとすると、画面のなかでは小さい人やトラックはとらえることはできない。
一方で、小さい人や動物を見つけようとすれば、目を凝らして画面の1点に集中するため、画面の全体はとらえきれない。

結果、画面で動いているものをさがすために、せわしなく目を画面にはわせることになる。
そして、目をはわしている間じゅう、ずっと落ち着かない気持ちにさせられる。

フロアの最初に飾られた映像作品と「本当は、ずっと動いている」という一言に、僕の視点はすっかり乗っ取られてしまった。

キュレーションによって与えられた視点から、逃れることはできなかった。

松江泰治の作品が満たされた空間にいた間、僕はずっと、背中や腕にアリがはうような感覚に襲われていた。

僕はアリがはいまわる感覚から逃げ出すように、次のアーティスト、タラ・ドノヴァンのフロアへ向かった。

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