これからを観てみたいと思わされた@日本画ZERO展

展覧会が行われている空間も小さく、作品も少ない。

そして、キュレーターの村上隆の野望である<『日本画科』を完全になくす>という可能性を感じさせる、力強さをもつ作品はなかったと思う。

一方で、<その学科の餌食になった検体のけなげで可哀想な足掻きをガチでみせるのが主旨>という目的を達成している展覧会だった。

しかし、日本画が<日本人が日本人である寄る辺であり得る芸術の総体>という定義ならば、あの小さい空間を満たした絵画は、僕にとっての日本画をよく表現しているように思えた。

すくなからず、僕が日本人として寄る辺としているのは、伊藤若冲や酒井抱一ではない。
彼らの作品は僕にとって、日本古来から受け継がれてきたという意味で日本画の代名詞だが、すでに、生活から遠く離れたところにあり、非日常だ。
見せてくれ、といわれたとしても、簡単に彼らの絵を見せることはできないし、説明もできない。

一方、僕が知っている絵のうまい、日本を代表する作家は、井上雄彦だったり、鳥山明だったり、という漫画家だ。
彼らの作品は日常にあり、現在も消費し続けている。
彼らの作品なら僕は説明できる。魅力についても、語ることができる。

僕がどちらの側に寄っているのは自明だ。
そして、そんな僕にとって、どちらが寄る辺としての日本画と呼ぶにふさわしいかも。

だから、展覧会に飾られた絵画が、日本画の萌芽と言われれば違和感はさほど感じない。

そんな作品群のなかで、僕が特に気に入ったのは、日比谷泰一郎の作品だ。
彼の絵画は、アニメっぽさを少し残した、広告のチラシなどを使ったコラージュ作品だった。

コラージュにつかわれたチラシなどの文字や映像のやかましさが、新宿や渋谷の広告看板やネオンのやかましさを彷彿とさせる。
その絵は、日本を代表する街を縮図であり、日本をよく表現しているように感じた。

彼のステートメントを読むとこれからに悩んでいるようだ。
勝手ながらぜひ、これからも作品を作って欲しいと思う。
http://hidari-zingaro.jp/2011/04/statement_hibiya/

最後にどうでもいいのだが、ちょっと気になったのは作品を観ている間、写真をパシャパシャと撮られたことだ。
使用目的もわからないし、気になった。
展覧会ではふつうのコトと考えるべきなのだろうか。

<>内は引用。引用は、下記から。
http://www.honeyee.com/feature/2011/nihongazero/contents.html

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