Archive for 2011年9月

LTをやってみてかんがえたこと

9月 18, 2011

最近、Lightning Talks(以下、LTと書く)という催しで話す機会があった。

きっかけは、僕が裏方を務めた勉強会でLTのトーカーを募集したところ、トーカーが集まらなかったことだ。
自分が言いだしっぺの企画の勉強会のコンテンツが成り立たないのは困る。
なにより「人に話してくれ」と図々しくもお願いしているのだから、自分もその輪に加わらないのは無責任すぎる、と考えてやることにした。

それまでは、普段からLTの誘いを受けても「人前で話すのは苦手なので」と断っていたので、僕は多くの人前ではじめてLTをやることになった。
その準備は結構、大変なものだった。

エンジニアという職種でなくても、見栄えの良いスライドを作り、中身のある話を、多くの人の前で、聞き取りやすい言葉と声で話す、という経験は稀有だ。

僕の作ったスライドはすべてが文字の簡単なものだったけど、内容を考えることをふくめてスライド作りには半日程度はかかった。
スライドを作ってからの練習時間は2日間で40〜50分程度は取ったと思う。

たった5分のLTのために結構、時間と労力を割く必要があることが、自分でやってみてわかった。

この初めてのLT以降に、関西でも懇親会の最中にLTをやってみて、いくつか思ったことがあるので書いてみる。

ちなみに、上記の勉強会では周囲の方々の協力もあり、自分を含めて4名でLT大会を行えることになった。
お話いただいた方には、非常に感謝している。

◯はなすのは楽しい

懇親会などのお酒がはいった場では特にだけど、LTは楽しい。

お酒を飲んでいる場合は、気持ちが大きくなっているから自信をもって話しやすい。
また、周囲もかならノリがよくて、好意的に自分の話を聞いてくれるからだ。

お酒のあるなしに関係なく、LTの良いところ、というか、やりやすいところは「質問なし」ということだ。
良くも悪くも言いっ放し、という点が資料を作りやすくしてくれるし、話しやすくしてくれる。

少々、論理的な構成が悪くても変に突っ込まれたりしない。
だから、いろいろ考えているんだけど、ちょっとモヤモヤしていることでも実験的に発言したり、その場で「言いたい」とおもったことを発言しやすい、というメリットがある。

人前で話すことは勇気がいることだ。
失敗したらはずかしいし、だからLTをやる、ということにはすこしばかり気持ちのジャンプが必要だ。

ただ、元来、人間は話したがりだと言われるし、自分の言葉を好意的に聞いてくれる人たちがいる場で話す、という経験ができるLTのトーカーは楽しいと思う。

◯頼まれたら断らない

慣れれば時間はかからないのかもしれないけど、上記の通り僕がやったときはスライド作りを含めて準備には最低、5,6時間はかかった。

勉強会の裏方をやっていると、お話をしていただきたい方に「こんなテーマで話してください」などとお願いすることが多い。
それは同時に勉強会のための準備をお願いすることで、大変なことをお願いしている、という自覚があった。

と同時に、社内勉強会などで自分が資料を用意して話す、という経験は何度がしているから、大変さを理解しているつもりだった。
しかし、それはやはり「つもり」でしかなかったことに気付かされた。

普段、顔を合わせない人たちの前で話をするということは、ストレスもプレッシャーもあるため、準備も念入りになる。
心理的には作業量的にも負荷の大きなことをお願いしているのだな、と改めて思い直した。

そして、勉強会でお話をすることを快く了承してくれる人たちは、オープンマインドで素晴らしい人たちなのだな、と感謝したくなった。

なにより、お願いを断らない人たちがいるからこそ、勉強会を含めた実践者たちの知識を共有するコミュニティが活性化しているのだということも改めて認識した。

僕はなにかについて深く話せるスペシャリストではないのでお話を頼まれることはない。
とはいえ、LTであれば多少は話せることは分かった。
なので、勉強会で講師を引き受けてくれる人たちを少しは見習って、LTを頼まれたときは断らずに引き受けてみよう、と思うようになった。

◯価値を生み出しているか

ただ、断らずに引き受けてみよう、とは思うものの、自分がLTをすることにどれだけ価値があるか、というのは考えたいと思う。

上述したけれども、LTはとくにお酒が入っていると好意的な雰囲気の中で話せるし、その経験は心地よい。
でも、自分が楽しいだけでは、聞いている人にとって価値があるとは限らない。

もちろん、聞いているすべての人にとって価値がある話など、LTに限らず難しい。
とはいえ、LTでも「どんな人」に「どんな行動をとってほしいか」など、テーマや目的を意識して話すことが重要だと思う。

話し手だけが楽しい、というLTをやることに僕は魅力を感じない。
もちろん、話し手の満足を見出すのがLTだ、という意見もあるかもしれないが。

ちなみに僕はあまりLT自体を聞いた回数は多く無いけれど、「面白くない」「無価値だな」と感じたLTに出会ったことはない。
ある人の視点や考えを聞くことは、それだけで無条件に新鮮で勉強になるのかもしれない。

ただ、自分がLTをやるときは、自分の話が誰にとって、どんな価値があるのか、聞き手のことを中心に考えて話したい。

LTに限らず、なにか新しいことをやると勉強になる。

※以下、2011/09/20に追記
TLを見ていたら僕がこのエントリで言いたかったことがずばり言われていた。
こんな長いエントリを書かなくても、問題意識をもっている人は核心をつくシンプルな言葉をもっている。

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モノのカタチは価値を伝える道具だと思う

9月 5, 2011

少しぼやけてわかりにくいけれど、この写真を見てほしい。

可愛らしいリボンのカタチの絆創膏だ。

デザインに親しむと、デザインはデコレーションとは違うということに気付かされる。
デザインは意図も意味もなく、ものの姿や形を飾り立てることではない。

では、上記の写真のリボンのカタチの絆創膏はどうだろうか。
単に絆創膏をリボンのカタチにすることには全く意味が無いだろうか。

おそらくある。

写真のパンフレットに女の子が掲載されているが、ちょっと見た目を気にする女の子は、普通の絆創膏よりもリボンの形を選びそうだ。

もしかしたら、男の子だって普通の絆創膏をするよりは、リボンの形を選ぶかもしれない。

見た目をちょっと変えるだけで、傷とダサさをイメージさせる絆創膏が、可愛らしい、ポジティブなイメージに変わる。

カタチを変えるというのは思った以上にインパクトがある。

使用する材料がかわったり、同じ材料でも使用する量が変わるかもしれない。

絆創膏だったら材料の切り抜き方が変わるから、切りぬくための型がかわったり、効率良く材料を使うための材料の利用計画が変わるかもしれない。

そして、使う人たち、見る人たちのイメージを変えてしまう力がある。

見る側、消費する側のイメージが変わることで、そのモノの価値が変わることがある。

たとえば、時計だ。

時計は時間を知るものだ。
しかし、一方では富の象徴であったり、美的な嗜好を表現するものとなる。

富を象徴したり、美的な嗜好を表現したりする時計は、「正確な時間を知りたい」という欲求を満たすものではなく、「時間を計算して行動できない」という問題を解決するものでもなくなる。

時計は「目立ちたい、金銭的優位を誇示したい」という欲求を満たすものであり、「見た目が貧弱で軽視されがち」という問題を解決するものになりうる。

機能を変えずに見た目を変えることで、同じ機能をもつものが、別の意味や価値をもつ。

そして、意味や価値を変えることで、人びとその商品を消費する態度を変えることもある。

たとえば、リボンの絆創膏はちょっと高くても子供たちのお気に入りになってよく売れる商品になるかもしれない。

もしかしたら怪我をしていないけど、おしゃれとして自分を飾り立てるために使うかもしれない。

そうしたモノの価値を変える場合に、形を変える、というのは単純な発想かもしれない。
カタチを変えるだけで、それを使う人たちの感覚や体験を変えることはそう多くないかもしれない。

ただ、モノのカタチを変えるということは、そのモノが発信する価値を変えるということがありうる。

普段使うものが少しおしゃれだったり、良いイメージなったりするだけで、消費者の少しだけ良い気持ちになるかもしれない。

カタチを変え、見た目を変えることは、姑息な手段かもしれないけれど、ときにその意味を受け取った人たちの感情や経験を変えてしまう力をもつ。

リボンのカタチの絆創膏は「かわいさ」という、リボン型の絆創膏の価値を消費者に伝える。

その時にリボンのカタチの絆創膏は、単に傷を保護するものではなくアクセサリーとして消費される。

カタチを変えることは、ときにモノの価値を変える力になる。

リボンのカタチの絆創膏を見て、そんなことを再確認した。