Archive for 2012年1月

無題

1月 15, 2012

そもそも、美術作品を見ていると「パッと見てスゴイな!」と思ったり、「いいな!好きだな!」と感じたりすることがある。
これは頭の中で何かを考えたわけでなく、脊椎反射と云うか作品にたいする解釈を挟まない感覚によるものだ。

美術作品を生んだ作家、生まれた時代背景、なにより作家自身が作品に対してこめた思いなどを知ることなく、作品そのものを見てどう感じるか、そして、その作品に価値を感じるかを判断することを「審美派」、一方で審美派が無視しているものを考慮して、作品の価値を判断しようとするのが「教養派」と誰かが本で、言っていた。

僕が中学や高校までに受けてきた教育では審美派的な美の価値を多く説かれていた。
作品は考えすぎずに自らの思うままに作ればよいし、作品の価値も「自分がその作品を見て何を思ったか」を基準に決めて良いのだといわれていた。

作品の美は言葉による説明を必要とせず、必然的ににじみ出てくるものだし、多くの人々はその美を理解できるのだ。
こうした考え方は間違っていないよう思うのだけれど、この立場に立っていただけでは理解出来ないことも多い。
僕にとっては、パブロ・ピカソのキュビスムの作品がそうだった。彼の作品が美しく、価値があるというのは「よくわからない」ことだった。

そんな、僕がピカソという有名な芸術家の作品の価値を理解できたのは、大学に入ってからだ。
図像学という講義を受講して絵には見方というものがあり、多くの人たちはルールに従って作品の価値、つまり美を理解しているのだと知った。

美は作品と自分との関係だけから湧き出るのではなくて、多くの人々は共有しているルールによって共有され、支えられている。
だから、作品を見ただけでは、その作品の美をとらえることはできない。
ルールを知り、ルールに沿った価値基準においてどの程度、価値が高いのかを説明しなければ作品の美は多くの人には伝わらないし、共有されない。

特に現代アートでは「なんだこれ?」という作品に出会うことが多い。
ポンッと目の前に置かれたなんだかよくわからない作品は、「何を表現したいのか」「なぜ価値があるのか」という見た目では表現しきれていない価値の説明を必要とする。

そうした作品に何がしかの説明があればいいだけれど、ないものも多い。
特に異国の美術館だとキャプションが読めないので、作品と自分との関係のなかで美を理解するという難行に挑まなければいけない。

このように考えると美には国境が存在していて、翻訳が必要であり、美術鑑賞は体感的な経験じゃないのかもしれない。

むしろコードの美をとらえるのと似ているかもしれない。
コンテキスト、意図がわからなければその美と価値が理解出来ないという点において。
そして、美をとらえるにはたくさんの美しいものを見るという経験と自分の創造物の美を主張する人は「なぜ美しいのか」を説明しなければならない、という責任がある点も。