Archive for the ‘アート’ Category

「真実は小説の中にある」という言葉@『最初の人間』

1月 20, 2013

『最初の人間』を岩波ホールで見てきた。
http://www.zaziefilms.com/ningen/introduction.html

厳しい祖母、優しい母、理解ある教師そして、癒しである太陽と海、原作者であるアルベール・カミュの青春と人生を支えた存在への強い思いが優しく表現された映画だった。
独立を目的としたテロに揺れるアルジェリア。
そのアルジェリアにフランス人として生まれ、フランスで有名作家となった主人公、カミュの分身であるジャック・コムルリ。
出身大学でのアルジェリアを支持するスピーチをおこなったものの、会場は荒れる。

アルジェリアの寄り添うことを心に決めつつも、フランス人として名声と富を得た自らの立場とアイデンティティに悩む。
ジャックは、自らのルーツを探すように亡き父のことを調べはじめ、幼い時を過ごした場所を訪ねる。

僕の印象に残った言葉が、ジャックである恩師であるベルナールの言葉だった。
それがタイトルにもした「真実は小説の中にある」という言葉だった。

この言葉はどういう意味だろう。
小説にの中にある真実とは、人びとの生活を描き出すこと、そして、読み手にその生活を想像させ共感させることなのだと思う。

よく言われるが死者の数も多数になれば統計になる。
ようするに問題が大きくなればなるほど、その問題に煩わされ、不幸を背負う人びとの姿は消えてなくなる。

貧困問題、紛争という大きな概念を指す言葉がそうだ。
言葉から、問題の重大さは伝わってくるが、人びとの生活と苦悩を想像させる力はない。

たしかに、マクロな視点は問題を整理し、問題の真の原因を発見する手助けをしてくれる。
一方で、マクロな視点から生み出される解決策は単純化されていることがおおい。
「ここに至っては武力解決もやむを得ない」という言葉はまさにマクロな視点による発想だ。

地域紛争を解決する方法が、武力解決しかない、ということはありえるかもしれない。
ただその地域には生活している人々がいる。
武力による解決によって、生活する人びとは死をはじめとしたあらゆる不幸を背負う。

ベルナールが小説の中に真実がある、というとき、アルジェリアの独立という大きな問題が覆い隠す人びとの存在が描かれることを期待しているのではないだろうか。
アルジェリアの独立は、大きな視点からはアルジェリア人(映画ではアラブ人という言葉が使われていた)とフランス人の対立として捉えられる。
フランス人はフランスを支持し、アルジェリア人はアルジェリアを支持する、という暗黙の前提がある。
その前提では、事実として、フランス人としてアルジェリアに生まれ育った人びとがいることが考慮されていない。
彼らの苦悩は存在しない。

しかし、人びとの生活を描ける小説であるのなら、彼らの苦悩を描き出せる。
彼らのことを知らない人びとが、小説を通じて彼らに共感し、理解する機会を得る。

真実が宿る小説とはそんなものではないだろうか。

この映画を見た後で、奇しくもアルジェリアで日本人も人質に含まれるテロが発生していることを思い出した。
触れなければならないように思えたのだけど、なぜテロが発生したのかの理由、背景を僕は知らない。
人びとの生活がどのようなものなのか、想像もつかない。
ただ、問題への無知と想像力のなさが問題を長引かせる、ということが原因であることがわかるのみだ。
だから語れることがない。

ただ、双方の被害が少なく問題が解決することを祈る。

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無題

1月 15, 2012

そもそも、美術作品を見ていると「パッと見てスゴイな!」と思ったり、「いいな!好きだな!」と感じたりすることがある。
これは頭の中で何かを考えたわけでなく、脊椎反射と云うか作品にたいする解釈を挟まない感覚によるものだ。

美術作品を生んだ作家、生まれた時代背景、なにより作家自身が作品に対してこめた思いなどを知ることなく、作品そのものを見てどう感じるか、そして、その作品に価値を感じるかを判断することを「審美派」、一方で審美派が無視しているものを考慮して、作品の価値を判断しようとするのが「教養派」と誰かが本で、言っていた。

僕が中学や高校までに受けてきた教育では審美派的な美の価値を多く説かれていた。
作品は考えすぎずに自らの思うままに作ればよいし、作品の価値も「自分がその作品を見て何を思ったか」を基準に決めて良いのだといわれていた。

作品の美は言葉による説明を必要とせず、必然的ににじみ出てくるものだし、多くの人々はその美を理解できるのだ。
こうした考え方は間違っていないよう思うのだけれど、この立場に立っていただけでは理解出来ないことも多い。
僕にとっては、パブロ・ピカソのキュビスムの作品がそうだった。彼の作品が美しく、価値があるというのは「よくわからない」ことだった。

そんな、僕がピカソという有名な芸術家の作品の価値を理解できたのは、大学に入ってからだ。
図像学という講義を受講して絵には見方というものがあり、多くの人たちはルールに従って作品の価値、つまり美を理解しているのだと知った。

美は作品と自分との関係だけから湧き出るのではなくて、多くの人々は共有しているルールによって共有され、支えられている。
だから、作品を見ただけでは、その作品の美をとらえることはできない。
ルールを知り、ルールに沿った価値基準においてどの程度、価値が高いのかを説明しなければ作品の美は多くの人には伝わらないし、共有されない。

特に現代アートでは「なんだこれ?」という作品に出会うことが多い。
ポンッと目の前に置かれたなんだかよくわからない作品は、「何を表現したいのか」「なぜ価値があるのか」という見た目では表現しきれていない価値の説明を必要とする。

そうした作品に何がしかの説明があればいいだけれど、ないものも多い。
特に異国の美術館だとキャプションが読めないので、作品と自分との関係のなかで美を理解するという難行に挑まなければいけない。

このように考えると美には国境が存在していて、翻訳が必要であり、美術鑑賞は体感的な経験じゃないのかもしれない。

むしろコードの美をとらえるのと似ているかもしれない。
コンテキスト、意図がわからなければその美と価値が理解出来ないという点において。
そして、美をとらえるにはたくさんの美しいものを見るという経験と自分の創造物の美を主張する人は「なぜ美しいのか」を説明しなければならない、という責任がある点も。

「シンセシス」展をみてきた

6月 26, 2011

パンフレットを持ってこなかったことが悔やまれる。
先週、東京都現代美術館で開催されている名和晃平の「シンセシス」展へ行ってきた。

それぞれ綺羅びやかだったり、幻想的だったり作品群が構成する世界観にすっかり魅せられた。
たとえ、触れることができず、十分な魅力を伝えてくれないにしても、すこしでもその世界観を感じ取れるのであれば、パンフレットでももって帰ってくればよかった。

美術作品は、実物よりも写真のほうがよい、と言われるものがある。

たとえば、有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ(ラ・ジョコンダ)』などがそう言われる。
劣化を防ぐために照明が十分に当てられず、盗難防止用のガラスケースにおさめられた作品を見ると、ガッカリする人が多い。

私の周囲でも、「小学校の美術の教科書で見たほうが綺麗だった」という人がいた。

一方で、名和晃平の作品は、真逆だ。
実際に見ないとその魅力を十分に味わうことはできない。

下記のURLから作品を見てもらえばわかるとおり、非常に綺羅びやか作品なのだ。
宝石やシャンデリアを思わせる作品群は、写真からでもつたわる綺羅びやかさに目を奪われる。
が、展覧会で直接、目にする作品群からはさらなる魅力を感じ取ることができる。
http://www.mot-art-museum.jp/koheinawa/

その世界を支える「セル」という概念を、名和晃平は下記のように説明している。

細胞や小部屋、ユニットといった、一つの単位のことですね。それが組み合わさって世界全体がつくられている、というイメージです。
http://www.beams.co.jp/andmore/interview/inteview-with-kohei-nawa-1.html

Scumという作品群は、動物やロボットの機械の表面にビッシリと白いカビ、苔ようなものが覆っている。
PixCell-Deerという作品群では、キラキラと光るビーズが鹿を覆っている。

白いカビやビーズは、その1つ1つが「セル」という最小の単位であり、それが密集することで非常につよい生命力を感じた。

それは幻想的で、ナウシカの腐海を思わせる世界観だった。
腐海では人間の活動は停止するが、腐海で生きられる生物もいる。
ある生命の停止がある生命の活動を支える世界。

それは、食物連鎖で支えられる現実の世界と同じだが、名和晃平の作品をつうじて感じる世界は幻想的だ。

そして、その展覧会の世界観は単純に、Webや本などで写真を通じて鑑賞しても味わうことはできない。

ぜひ、幻想的な名和晃平の世界を美術館に足を運んで感じてほしい。

これからを観てみたいと思わされた@日本画ZERO展

5月 5, 2011

展覧会が行われている空間も小さく、作品も少ない。

そして、キュレーターの村上隆の野望である<『日本画科』を完全になくす>という可能性を感じさせる、力強さをもつ作品はなかったと思う。

一方で、<その学科の餌食になった検体のけなげで可哀想な足掻きをガチでみせるのが主旨>という目的を達成している展覧会だった。

しかし、日本画が<日本人が日本人である寄る辺であり得る芸術の総体>という定義ならば、あの小さい空間を満たした絵画は、僕にとっての日本画をよく表現しているように思えた。

すくなからず、僕が日本人として寄る辺としているのは、伊藤若冲や酒井抱一ではない。
彼らの作品は僕にとって、日本古来から受け継がれてきたという意味で日本画の代名詞だが、すでに、生活から遠く離れたところにあり、非日常だ。
見せてくれ、といわれたとしても、簡単に彼らの絵を見せることはできないし、説明もできない。

一方、僕が知っている絵のうまい、日本を代表する作家は、井上雄彦だったり、鳥山明だったり、という漫画家だ。
彼らの作品は日常にあり、現在も消費し続けている。
彼らの作品なら僕は説明できる。魅力についても、語ることができる。

僕がどちらの側に寄っているのは自明だ。
そして、そんな僕にとって、どちらが寄る辺としての日本画と呼ぶにふさわしいかも。

だから、展覧会に飾られた絵画が、日本画の萌芽と言われれば違和感はさほど感じない。

そんな作品群のなかで、僕が特に気に入ったのは、日比谷泰一郎の作品だ。
彼の絵画は、アニメっぽさを少し残した、広告のチラシなどを使ったコラージュ作品だった。

コラージュにつかわれたチラシなどの文字や映像のやかましさが、新宿や渋谷の広告看板やネオンのやかましさを彷彿とさせる。
その絵は、日本を代表する街を縮図であり、日本をよく表現しているように感じた。

彼のステートメントを読むとこれからに悩んでいるようだ。
勝手ながらぜひ、これからも作品を作って欲しいと思う。
http://hidari-zingaro.jp/2011/04/statement_hibiya/

最後にどうでもいいのだが、ちょっと気になったのは作品を観ている間、写真をパシャパシャと撮られたことだ。
使用目的もわからないし、気になった。
展覧会ではふつうのコトと考えるべきなのだろうか。

<>内は引用。引用は、下記から。
http://www.honeyee.com/feature/2011/nihongazero/contents.html

「本当は、動いている」存在を探してしまうフロア@アーティスト・ファイル2011

5月 1, 2011

ゴールデウィークをアート三昧で過ごそうと思い、国立新美術館で開催されている「アーティスト・ファイル2011ー現代作家たち」展に向った。

アーティスト・ファイル展は、僕が現代アートに興味をもつきっかけになった展覧会で、毎回、見にゆくのが楽しみにしている。


今回、印象深かったのは、松江泰治の作品だ。

松江泰治の作品は、街、採掘場、平原を航空写真のようにとても高い視点からとらえた写真だ。
写真の外にある世界さえ感じさせる雄大な作品だ。

一方で、人工的でジオラマをとらえたかのような非現実感をたたえている。
不思議な、不調和、不均衡を感じさせる作品だ。

松江泰治の作品が印象に残ったのは作品の魅力によるものだけではない。
その作品の見せ方、キュレーションによる力も関係している。

作品が展示されているフロアに入ると、まず、映像作品をみせられる。
そこでは、これから写真で見るであろう静止した風景が、動いている。
風景は採掘場で、動いているのは砂利のようなものを積んでいるトラックだったと思う。

そして、フロアの中央には、衛星から撮影されたような街中の人びとの写真が飾られているのに気づく。
プールサイドでくつろいだり、街中で犬の散歩をしたりしている人びとが、ぼやけた姿でとらえられている。
それをみると、広大な風景の中に、非常に小さな存在としての人を意識させられる。

これらの作品をながめあとに、パンフレットに目を落とした。
パンフレットには、「本当は、ずっと動いている」という赤い文字が書かれていた。

そして、雄大な風景の写真を見る。
そうすると、写真をとらえる自分の視点が変化してしまったことに気づいた。

写真という静止した世界に動いているなにか、を発見しようとするになってしまったのだ。
静止した街の中に人が、採掘場の中にトラックが、平原には動物が、映像作品のようにうごく姿を探してしまうのだ。

広大な景色を収めた写真のなかには、フロアの中心に置かれた衛生からの写真のように、小さいながらも動く存在がいるはずだからだ。

そんなふうに考えてしまうと、いままでゆっくりと眺めていた作品を落ち着いて鑑賞できなくなってしまう。

この写真のどこかで、人が、トラックが、動物が、動いているのではないか、と作品のはしばしまで目をはしらせるようになる。

大きな写真は全体を眺めようとすると、画面のなかでは小さい人やトラックはとらえることはできない。
一方で、小さい人や動物を見つけようとすれば、目を凝らして画面の1点に集中するため、画面の全体はとらえきれない。

結果、画面で動いているものをさがすために、せわしなく目を画面にはわせることになる。
そして、目をはわしている間じゅう、ずっと落ち着かない気持ちにさせられる。

フロアの最初に飾られた映像作品と「本当は、ずっと動いている」という一言に、僕の視点はすっかり乗っ取られてしまった。

キュレーションによって与えられた視点から、逃れることはできなかった。

松江泰治の作品が満たされた空間にいた間、僕はずっと、背中や腕にアリがはうような感覚に襲われていた。

僕はアリがはいまわる感覚から逃げ出すように、次のアーティスト、タラ・ドノヴァンのフロアへ向かった。

一体感のある場づくりの難しさを感じた@愛知トリエンナーレ

9月 23, 2010

一体感のある場を作るのは難しいものです。
大人になればなるほど、それは難しくなるように感じます。

たとえば、小学校の頃の運動会。
おそらく大半の人は文句を言いながらも、ダンスや行進の練習を素直にしていました。

ですが、高校生の文化祭となると、もうダメです。
なんとなく反抗心を抱く人や自分でやりたいことが出てきた人たち、彼や彼女たちには参加を強要できません。

社会人となり、仕事の場となるとさらに複雑です。
家庭を持つ人、仕事以外にやりがいを求めて活動している人、こうした人たちに業務を命令することはできます。
しかし、納得して活動してもらうことはできません。

愛知トリエンナーレの会場、名古屋の街中で感じたのはそんな雰囲気でした。
1つ1つの会場は確かに盛り上がっているのですが、「名古屋」という街全体ではそれほど盛り上がっていないような雰囲気だったのです。

会の運営方法が悪い、と言いたいのではありません。
会場の運営に携わっているボランティアの方々が街中におり、質問をすれば丁寧な対応をしてくれます。
名古屋の街に点在している会場にも人と活気が溢れていました。


しかし、会場から一歩、足を踏み出して街中へでてしまうと、活気も消えてしまうのです。
せっかく会場で味わった雰囲気の余韻も、次の会場へ向かうまでに完全に消えてしまうのです。

1つ1つの場はしっかりとしているのに、それぞれがつながりがない。
これは、1つ1つの場が盛り上がっているからこそ、とてももったいないことだと思います。

一体感のある場にいることは、とても楽しいことです。
ただ、すべての人達がその場に参加し、一体感を得ることはできません。
というのは、そもそも活動自体があることを知らないという人もいますし、知っていても興味がわかない、という人もいるからです。

どのような場にも、その場に参加できず、一体感をもてない人達がいます。
問題は、その人達をなくすことではなく、参加意識の高い人達の一体感が、その人たちを上回れるか、ということです。
愛知トリエンナーレの会場である名古屋市内では、いまはまだそのような状態になかったのだ、と思います。

街中の至る所にアートを配置し、それによって場の一体感が醸成されると考えられたかもしれません。

しかし、それ以上に街中で目についたのは、アートに興味がない人たちです。
興味がない人たちが邪魔だ、と言いたいのではありません。
むしろ興味のない人達にとっては、アートのイベントこそが邪魔で迷惑だったのではないか、と思うのです。

そして、そんな空気を感じてアートを見ている人たちも、ちょっと冷めてしまう、という感じ。
お互いに不幸な関係があったように思います。

境界を取り払ってものごとを行ない、周囲を巻き込み、共感を得ることで場の一体感は生まれることもあるでしょう。
でも、それはとても難しいことです。

愛知トリエンナーレというイベントは、その難しい場づくりに挑戦したイベントだと思います。
ただ、まだ時期尚早、アートと生活の場に境界を設けて、イベント開催したほうが良かったのではないかと思います。
そのほうが少なからず、アート目的に集まった人たちは、場の一体感を感じて盛り上がることができたのではないでしょうか。

いろいろ文句を書きつらねてきましたが、愛知トリエンナーレというイベントに行けたことにはとても満足しています。
とくに、オペラの『ホフマン物語』の豪華な舞台装置とオーケストラの演奏は、素晴らしい、の一言でした。
オペラは初めて鑑賞しましたが、とても楽しかったです。

なにより、暑いなか沢山のボランティアの人々と各会場の来場者の熱気は、日常的に開催される現代アートの展覧会と比較にならないものでした。
このような熱がトリエンナーレが終了しても続けば、次回はもっと街中にアートな雰囲気があふれた良いイベントになるかもしれません。

アーティストの条件

8月 26, 2010

細部まで描かれた柱や壁の細工や人物が身につけた装飾品。
そして、それらを幻想的で彩る青色や金色。
中心にいる病的なまで白く艶めかしい女性と金色に光り輝く宙に浮いた生首。
『出現』というギュスターヴ・モローという作品は、幻想的であると同時に、描いたアーティストの圧倒的な技芸を感じさせる作品です。

この作品は、宗教史においてにおいて有名なサロメとそのサロメの願いによって斬首されることになった洗礼者ヨハネをモティーフとした作品です。
そして、ギュスターヴ・モローはこのサロメをモティーフに、複数の絵画を残しています。
それは、サロメ、というモティーフを通じて「表現したい何か」があったからでしょう。
そうした作者の意図、というのは理解することはもちろん、作品を鑑賞することをつうじて想像することにすら、勉強が必要です。
たとえば、作品に「描かれている人物は誰か」、そして、「その人物はどのよう人物であるか」というようなことを知らなければいけません。

しかし、『出現』をはじめとしたギュスターヴ・モローの作品の凄さは、知識を必要とする一方、予備知識がなくとも十分に魅力をかんじられることです。
細部まで描きこまれた背景や装飾品、幻想的な配色は、視覚的な快を鑑賞者に与えます。
そして、その作品を生み出した、素人では真似のできない技芸に鑑賞者は、圧倒され、尊敬の念を抱くのです。
つまり、作品が表現している「なにか」、作家が表現しようとしている「なにか」をたとえ理解できなくても、私たちは、その作家のもつ技術の卓越さに驚き、感動することができるのです。

一方、フランク・ステラの「ブラックペインティング」と称される作品のなかに『理知と混沌の結婚II』という作品があります。
ブラックペインティングと称されるように、その絵画はほとんど黒一色であり、機械的に白のストライプが走っているだけです。
それもそのはずで、この作品は、黒い線をカンヴァスに機械的に、かつ正確に引いていっただけの作品なのです。
大半の人は、この作品を一目見ただけでは「なぜ素晴らしいのか」を理解出来ないでしょうし、「美的ななにか」を感じることはできないでしょう。
たしかに正確に黒い線が引かれていますが、デッサンができない素人でもなんとか描けそうな作品です。

しかし、このフランク・ステラの作品は、近・現代の美術史にとって欠かすことのできない重要な作品なのです。
視覚的な快、という意味では人それぞれ感じることはあるでしょうが、素人目からすると美しくもなく、技芸に圧倒されることもない作品が、美術史に残る理由はただ1つです。
それは、その当時の美術界が抱えていた「難題」に答えを提示するものであったからです。

過去の行いやモノよりも、現代の行いやモノが優れているという考えがあります。
それが本当であるか否かは別として、そうした考えは「進歩史観」と呼ばれます。
美術の世界においても、過去の作品は確かに素晴らしいが現代の作品は、その素晴らしさを乗り越えて価値を示さなければならない、という考えがあります。
フランク・ステラは、彼が活躍した時代に美術界が抱えていた、絵画における

画面という物理的な条件と、そこに描かれる内容とを、どうやって無理なく摺り合わせるか
『反アート入門』(p.51)

という問題を見事に解決したのです。
そのために、作品として、またその作者のとしてフランク・ステラの名は長い美術史の歴史に残ったのです。

アーティストといえば、

自らの才能と感性を表現する
自ら、優れた技芸をもちモノを作り上げる

という存在であると考えがちです。
そのため、アーティスト、を標榜していると、とりわけ独りよがりの価値観で行動しがちになります。
それこそが純粋で、高潔なアーティストの姿である、という思い込みがあるからです。

ですが、フランク・ステラを見れば、アーティストとは、共通の問題に取り組んでいる人たちにたいして

答えを提示し、その答えの価値を認めさせる

ことに成功した人たちだということが分かります。
つまり、優れた技芸だけでもそのものにたいして情熱を持っていたり、作品に込めたりしただけでもアーティスト足りえないのです。
むしろ、私心とは関係なく、美術という長い歴史を持つ存在の発展に貢献したからこそ、アーティストと呼ばれているのです。

何かにこだわりを持ち、それを貫くことに多くの人達は、心を奪われます。
なぜなら、強い信念や美意識をもち、それを貫くことを尊いと感じているからです。
そして、仕事では、それをコードやドキュメント、行動を通じて表現することに囚われることがあります。
そのような行いを、アーティストを自称することで正当化しようとするときがあります。

しかし、フランク・ステラを見るとわかるとおり、本当のアーティストは自らの信念や美意識にこだわり、それを表現することになんの価値も見出していません。
むしろ、「自分が関わるものごとの発展に貢献しているか」という視点により行動し、成果を生み出しているのです。

自らのアイディアや価値観にとらわれそうになったとき、このアーティストの条件を思い出してみたいと思います。

プログラマーとマン・レイの相似

8月 15, 2010

ブログを書くこと、スポーツをすること、自らを着飾ること、音楽を奏でること。
こうしたことにおいて私たちは、自己や美意識を表現しようという抑えがたい欲求をいだきます。
私生活ではもちろんのこと、仕事でも同様です。

例えば、私はシステムエンジニアです。
システムエンジニアとして、たとえどんな言語を使用していたとしても、コードを書くときはアーティストであろうとします。
コードを書くこと、プログラムを生み出すことにたいする哲学と美意識をその作業とプログラムに込めようとします。
そして、ひとたびプログラムを誰かが見る、と耳にしたら、自らの哲学と美にたいする自信を感じつつ、批判や嘲りを受けるかもしれないという恐怖にかられるのです。

とはいえ、私は同僚などからとりわけコードを書くことにこだわりを持っているとは思われていません。
そして、自身でもコードを書くことそのものに強いこだわり感じていると思ってはいないのです。
こんな人間ですら、プログラムを書くときには上記のようなアーティストであろうという感情を抱くのです。

この業界は多少はあれど、コードを書くときにはすべての人はアーティストなのです。

むしろ、アーティストとしての意識の強い人は、私のようにシステムエンジニアなどとは名乗らず、プログラマーと名乗るでしょう。
また、プログラマーは私のように恐怖など感じないでしょう。
むしろ、自らの才能と作品を評価しようとしない周囲に憤りを感じ、自らの作品を誇ります。
しかし、周囲には気付かれないように、その作品をさらに磨き上げる努力を惜しまないのです。

私が、国立新美術館で目にしたマン・レイと作品と生き様は、このプログラマーというIT業界の革新を支える人たちを思わせます。

マン・レイの魅力は、その自由な活動とアーティストとしての強烈な意識です。
ヴォーグなど、今もなお存在するファッション誌の写真家として成功し、ピカソ、ヘミングウェイ、ジャン・コクトーなど名だたる著名人たちを被写体としてなお、彼は画家としての成功を夢見ました。
そして、「写真は芸術ではない。私は写真家でもない。」という言葉を残しています。
マン・レイは単に、被写体を記録する道具として写真を捉え、レイヨグラフ、ソラリゼーションとよばれる作品群を創り上げてなお、彼は自らの写真を芸術とすることをよしとしなかったのです。

そして、自由に平面と立体、写実と創作の世界を自由に行き来した人でもあります。
絵画や写真などの平面の世界、オブジェやチェスの駒のデザインといった立体の世界。
正確に姿を写しとる写真の世界、ダダ、シュールレアリスムという無意識と幻想の世界。
マン・レイはその興味と意欲の向くままに活動を行ないました。

マン・レイは、アーティストであるという強烈な意識を持ち続け、その創作意欲と表現を抑えこむようなことをしませんでした。
一時期は、活動の中心であり、名声の源泉であった写真から遠ざかり、絵画に取り組んだ時期もあります。
結果、死してなお、写真以外の多くの作品と共に「マン・レイ」の名は、シュールレアリスム、ダダの中心的なアーティストとして残ることになりました。

マン・レイは、このアーティストとしての評価を受ける自身の未来を予言しています。

ワインも新しいうちは酸っぱいが、年を経るうちにまろやかな味になっていく。それと同じように、写真も初めは単なる技術に過ぎないが、やがては本物の芸術になるのだろう

自らが芸術ではない、とした写真について、マン・レイはなぜ、なお芸術となりうると言ったのでしょうか。
私には、アーティストである彼の自尊心がこの言葉を言わせたように思えます。
すなわち、アーティストである自分が写真という技術に関わったのだから将来はきっと芸術に昇華する違いない、と、

私の業界にもアーティストであろうとする、システムエンジニアとプログラマーがたくさんいます。
彼らのそうした意識こそが、写真と同様にプログラムにおいても、マン・レイの予言を実現させる日、すなわち、プログラムとそれを生み出すプログラミング、コーディングという行為を芸術に昇華させる日がくるかもしません。

しかし、受託システム開発においてお客様の役に立つのか。
これはまた別のお話し、でしょうか。

【会場情報】
◆国立新美術館-「マン・レイ」展
http://man-ray.com/
◆TAB-マン・レイ 「知られざる創作の秘密」 展
http://www.tokyoartbeat.com/event/2010/E879

【作家情報】
◆マン・レイ(Man Ray)
Wikipedia-マン・レイ

Wikipedia-Man Ray

【次の予定】
◆未定

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twitterでアートを楽しむ

6月 27, 2010

最近、週末が忙しくなかなか美術館や博物館に行けておらず、ちょっと寂しい思いをしております。
その寂しさを紛らわしてくれる楽しみとなっているのが、twitter上に流れてくるart_fanさんのつぶやきです。
art_fanさんは、twitter上で、ネットで紹介されている作品の記事やビデオ・インスタレーションを、紹介してくれています。

美術館の展覧会では、知識と美意識がある人たちが、あるテーマにそって作品を選択し、展示方法を考え展示します。
こうした行為をキュレーション、これをキュレーターという人が勤めます。これは、非常に重要な仕事です。

art_fanさんのつぶやきは、こうしたキュレーションの行為と同様に価値があると思います。
紹介されている作品も非常に面白いものが多いので、一部、紹介したいと思います。

ホワイトボードを使用した、chris heldさんの『persian pallet』という作品です。
非常に細やかで、精密な作品です。
ページをみていただければわかりますが、その儚さがさらに細やかで繊細な印象を際立たせます。
http://www.designboom.com/weblog/cat/10/view/10623/chris-held-persian-pallet.html

もう一つは、ryohei yoshikiさんの『time of the sky II』という作品です。
遊び心、面白いコンセプトです。
もとは太陽の角度や色など空を見上げたり、日時計のような空の力を借りて計っていた時間。
現代では、無機質できっちりと計量されるようなった時間を、あえて感覚的に表現しています。
http://www.designboom.com/weblog/cat/8/view/10605/ryohei-yoshiyuki-time-of-the-sky-ii.html

最後は、ワールドカップにちなんだ作品です。
幻想的で、カッコいいです。
エントリーの最後には、作品の製作過程が紹介されていますが、完成した作品から見るとその製作過程は地味で、ちょっと滑稽です。
http://antenna7.com/businessnews/2010/06/lapppro-nike.html

実際に作品を観ることができなくても、こうした面白い作品をweb上で見ることできるだけでも、結構、満足できるものです。
作品によっては、海外のもので日本では見ることができないものも観ることができます。

twitter上では、art_fanさんをはじめとしていろいろな方が、おもしろい作品をつぶやいて教えてくれます。
みなさんも興味があったら、魅力的な作品をつぶやいてくれる人をフォローして見てください。

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システム開発はもっとデザイン的要素が必要だと考えた

5月 23, 2010

先日、「世界を変えるデザイン」展のカンファレンスに参加して、お話を聞いてきました。

1つは「エマージング・マーケットにおけるデザインの可能性」というタイトルの、Jan Carel Diehlさんのお話。
http://exhibition.bop-design.com/event/conference_5/
もう1つは、「デザイナーができること ~DESIGN CAN CHANGE THE WORLD~」というタイトルの、Ilona de Jonghさんのお話です。
http://exhibition.bop-design.com/event/conference_4/

彼らは、BOPビジネスに関わるデザイナーです。
BOPとは、Bottom Of the Pyramidの略で、発展途上国にいる低所得者層を意味します。
BOPビジネスは、そうした発展途上国に住まう貧困地域の人々の支援を行いながら、新たなビジネスマーケットを開拓することを目的とした取り組みです。

彼女たちが、デザイナーという立場で仕事をしています。
が、その話のなかで繰り返し使われていた言葉、すなわち重要視されていた要素は、システム開発にも関連が深いと感じられるものでした。
いかにまとめてみようと思います。

<オープンマインド>
JanさんもIlonaさんも「オープンマインド」という考え方を非常に重視していました。
彼女たちは、BOPビジネスに携わる立場から、貧困地域の生活の問題をデザインによって解決しようとしています。
しかし、すばらしいデザインは、天才的なひらめき、インスピレーションにのみによっては生まれません。
むしろ、プロダクトの受け手をよく調査することこそが、ひらめき、インスピレーションの源になります。
BOPビジネスに携わる彼らの調査対象は、貧困地域とその地域に住まう人々、ということになります。
そして、この調査において重要なことは、オープンマインド、であることなのです。

異なる文化、慣習を持つ地域、そしてその地域にすまう人々との交流は、いろいろな摩擦を生みがちです。
善悪の基準が異なることもあれば、美醜の感覚が異なれば、「良い」もの、「良い」デザインというものも変わってくるでしょう。
また、使用する言葉が違えば、自分が思っていることも、相手がおもっていることも正しく通じ合うことが難しくなります。
こうした状況下で、相手を否定したり、拒絶したりすることはとても簡単です。
しかし、そうして相手の意見や考えを無視してしまえば、綿密な調査は望むべくもありません。
むしろ、それらを尊重し、積極的に学ぶ必要があるのです。

オープンマインドとは、未知の文化や考えを積極的に受け入れる広い心、そして、積極的に学ぶという謙虚さを意味しているのです。
現地での調査を重視するという、現場主義においては、このオープンマインドが基礎であり、重要な要素になると考えられているのです。

<サスティナブル(継続性)>
貧困地域と関わるビジネスは、継続性が鍵です。
たとえば、収入で考えてみましょう。
100万円というお金を1度に寄付するよりも、1万円を10ヶ月間かけて寄付したほうが、地域は安定するでしょう。
というのは、不定期に大きな収入を得るより、小額でも定期的な収入を得られたほうが、人々は生活の計画が立てやすく、金銭を貯金や投資などがしやすくなるからです。
生活の予想ができる、計画が立てられる、というのは、安心の源です。

BOPという観点からは、地域の安定というのは無視できない重要な要素です。
とりあえず、ある地域にかかわったものの、うまくいかなからといってすぐに撤退してしまうと、そのコミュニティを破壊しかねません。
一時は斬新なアイデアでうまくいっていたため、ビジネスの競合となった地元企業をつぶしてしまったものの、ビジネスとしては赤字になったため撤退する。
このことによって、地元で同様のサービスを提供できる企業がなくなり、その地域の人々はサービス自体を受けられなくなる、という事態がおこりかねません。

このような事態を防ぐためには、そもそも地元企業と競合するようなサービスをもってBOPとして提供しない、という配慮が必要でしょう。
しかし、図らずも地元企業と競合し、その企業が消滅してしまったのであれば、そのサービスを継続的に提供し続ける、という義務が生じます。

また、低コストのビジネスである、ということも重要です。
BOPという性格上、そのビジネスがどれだけ大成功しても、大もうけは期待できません。
また、そもそもビジネスが成功するか、が未知数です。
そのうえ、ビジネスは継続することを念頭におく必要もあるのです。

ですので、コスト、必要とされる経費は可能な限り低く抑え続ける必要があります。
お話の中では、初期の費用よりも、それを維持するためのコストを低く抑えることの重要性が取り上げられていました。

なにごともはじめる事は、それほど難しいことではありません。
とくにBOPのように、貧困地域という弱者に先進国の資本という強者が関わるのですから、そのハードルは相当低い、と言えます。
しかし、一度、サービスを提供したら、そのサービスの質を保ち、消費者が必要な限りサービスを提供し続ける義務があります。
これは、先進国のビジネスでも当然のように求められることです。
BOPビジネスにおいては、その地域と人々の生活を安定させるためにも、より強く継続性は求められているのです。

<すでにあるモノを利用する>
ある参加者の方が「デザインを盗まれたらどうしますか?」という質問にIlonaさんが以下のように答えました。
「それは誇りに思うべきことだ。知恵やソリューションは共有されるべきものだから。」

もちろん、「事前に連絡して欲しい」という主旨のこともおっしゃっていたので、「盗用を認めた」わけではないでしょう。
しかし、自らのアイデアを利用されることについて、金銭的な見返りをもとめていません。
むしろ、多くの場所で自分のアイデアが利用され、問題が解決されること、そして、自らのアイデアがさまざまな場面で利用され、さらに磨き上げられることを望んでいます。

この考え方は、ITの世界ではすでに一般的であるといえます。
すなわち、Linuxなどが代表するオープンソースがこの考え方に近いと思います。
また、オブジェクト指向が目指すプログラムの再利用、そして、Javaが理想とするWrite Once, Run Anywhereという思想もきわめて近いです。

デザインもコードも、それを生み出す人々のインスピレーションを源泉としている、と考えられます。
そのため、自らの生み出したものが唯一無二だと考え、そのオリジンを主張したくなります。
そして、それらを守るために自らが生み出したものを他者に利用されることを拒みたくなります。

もしくは、自らの力量と自尊心を守るため、すでに他者が生み出した素晴らしいものがあるのに、それを使用することを拒む、ということもあります。
とかく、デザインには、一般的にデザイナーという個人の才能や霊感によって生み出される、というイメージがあります。
また、デザイナー自身も、みずからの手で新たなプロダクトを生み出したい、という欲もあるでしょう。
そのため、「何でも自分で作り出す」という意識をもちがちです。
しかし、その気持ちを抑えて、利用できそうなものは、有効に利用すべきなのです。

すでにあるモノを自らでイチから生み出す必要はないのです。
むしろ、利用すべきなのです。
すでにあるモノに自らのアイデアをつけたしたり、すであるモノ同士を結びつけたり、すでにあるモノの欠点を解消したりすることも視野に入れてデザインすべきなのです。

<デザインとは目的を達成するためのより良いプロセスをつくること>
現代において、デザイン、という言葉は多くの領域にまたがって使用されています。
単に魅力的、奇抜なカタチを生み出すことを目的としませんし、またなにか物をつくり出すことを目的としません。

では、デザインとは何なのでしょうか?
私がお二人の話を聞いて思ったのは、
デザインとは、

目的を達成するためのより良いプロセスをつくること

なのだ、ということです。
美しいカタチのプロダクトデザインも、BOPビジネスにおける地域への取り組みも、目的が存在します。
たとえば、美しいオーブントースターはパンをトーストにすることを目的としています。
また、JanさんのPeePooは、地域の衛生状態の改善を目的としています。
しかし、その目的を達成するためには、トースターやPeePooが不可欠なのではありません。

目的にいたる方法いくつもあります。
トーストはフライパンで焼いてもいいわけですし、衛生状態を解決するには下水を整備し各家庭にトイレを設置しても良いのです。
ただ、それらの方法はデザイナーにとっても、そのプロダクトを受け取る人々にとっても最適なプロセスではなかったのです。
パンを焼く人は、焼いた後わざわざフライパンを洗いたくもなければ、硬質で面白みのない形のトースターでパンを焼いても良い気持ちになれないのです。
また、PeePooを使う人々は、下水を引いて個別の家にトイレを作るお金もなければ、時間もありませんし、解決したい問題が他にも山ほどあるのです。

ですから、デザイナーは、プロダクトの受け手、もしくはデザイナーが届けたいと思っている対象を調査し、最適なプロセスを提示するのです。
そして、提示する方法がモノのカタチを決めることであったり、ものごとのプロセスを決めることであったりするのです。

デザイナーの仕事であるデザインとは、目的を達成することだけでなく、目的に到達するためのプロセスをより良くつくりあげることなのです。
このように考えると、デザインとシステム開発、それも受託システム開発の目的は非常に似ているといえます。
ビジネスアプリケーションもまた、アプリケーションを使う人々の業務プロセスをより良くすることを目的としているからです。
受託システム開発においては、まだ「デザイン」が強く意識されているとはいいがたいです。
ですが、「デザイナー」の思考方法やプロダクトを生み出す過程から学習することがたくさんあるはずです。

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