Archive for the ‘展覧会’ Category

モノのカタチは価値を伝える道具だと思う

9月 5, 2011

少しぼやけてわかりにくいけれど、この写真を見てほしい。

可愛らしいリボンのカタチの絆創膏だ。

デザインに親しむと、デザインはデコレーションとは違うということに気付かされる。
デザインは意図も意味もなく、ものの姿や形を飾り立てることではない。

では、上記の写真のリボンのカタチの絆創膏はどうだろうか。
単に絆創膏をリボンのカタチにすることには全く意味が無いだろうか。

おそらくある。

写真のパンフレットに女の子が掲載されているが、ちょっと見た目を気にする女の子は、普通の絆創膏よりもリボンの形を選びそうだ。

もしかしたら、男の子だって普通の絆創膏をするよりは、リボンの形を選ぶかもしれない。

見た目をちょっと変えるだけで、傷とダサさをイメージさせる絆創膏が、可愛らしい、ポジティブなイメージに変わる。

カタチを変えるというのは思った以上にインパクトがある。

使用する材料がかわったり、同じ材料でも使用する量が変わるかもしれない。

絆創膏だったら材料の切り抜き方が変わるから、切りぬくための型がかわったり、効率良く材料を使うための材料の利用計画が変わるかもしれない。

そして、使う人たち、見る人たちのイメージを変えてしまう力がある。

見る側、消費する側のイメージが変わることで、そのモノの価値が変わることがある。

たとえば、時計だ。

時計は時間を知るものだ。
しかし、一方では富の象徴であったり、美的な嗜好を表現するものとなる。

富を象徴したり、美的な嗜好を表現したりする時計は、「正確な時間を知りたい」という欲求を満たすものではなく、「時間を計算して行動できない」という問題を解決するものでもなくなる。

時計は「目立ちたい、金銭的優位を誇示したい」という欲求を満たすものであり、「見た目が貧弱で軽視されがち」という問題を解決するものになりうる。

機能を変えずに見た目を変えることで、同じ機能をもつものが、別の意味や価値をもつ。

そして、意味や価値を変えることで、人びとその商品を消費する態度を変えることもある。

たとえば、リボンの絆創膏はちょっと高くても子供たちのお気に入りになってよく売れる商品になるかもしれない。

もしかしたら怪我をしていないけど、おしゃれとして自分を飾り立てるために使うかもしれない。

そうしたモノの価値を変える場合に、形を変える、というのは単純な発想かもしれない。
カタチを変えるだけで、それを使う人たちの感覚や体験を変えることはそう多くないかもしれない。

ただ、モノのカタチを変えるということは、そのモノが発信する価値を変えるということがありうる。

普段使うものが少しおしゃれだったり、良いイメージなったりするだけで、消費者の少しだけ良い気持ちになるかもしれない。

カタチを変え、見た目を変えることは、姑息な手段かもしれないけれど、ときにその意味を受け取った人たちの感情や経験を変えてしまう力をもつ。

リボンのカタチの絆創膏は「かわいさ」という、リボン型の絆創膏の価値を消費者に伝える。

その時にリボンのカタチの絆創膏は、単に傷を保護するものではなくアクセサリーとして消費される。

カタチを変えることは、ときにモノの価値を変える力になる。

リボンのカタチの絆創膏を見て、そんなことを再確認した。

「シンセシス」展をみてきた

6月 26, 2011

パンフレットを持ってこなかったことが悔やまれる。
先週、東京都現代美術館で開催されている名和晃平の「シンセシス」展へ行ってきた。

それぞれ綺羅びやかだったり、幻想的だったり作品群が構成する世界観にすっかり魅せられた。
たとえ、触れることができず、十分な魅力を伝えてくれないにしても、すこしでもその世界観を感じ取れるのであれば、パンフレットでももって帰ってくればよかった。

美術作品は、実物よりも写真のほうがよい、と言われるものがある。

たとえば、有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ(ラ・ジョコンダ)』などがそう言われる。
劣化を防ぐために照明が十分に当てられず、盗難防止用のガラスケースにおさめられた作品を見ると、ガッカリする人が多い。

私の周囲でも、「小学校の美術の教科書で見たほうが綺麗だった」という人がいた。

一方で、名和晃平の作品は、真逆だ。
実際に見ないとその魅力を十分に味わうことはできない。

下記のURLから作品を見てもらえばわかるとおり、非常に綺羅びやか作品なのだ。
宝石やシャンデリアを思わせる作品群は、写真からでもつたわる綺羅びやかさに目を奪われる。
が、展覧会で直接、目にする作品群からはさらなる魅力を感じ取ることができる。
http://www.mot-art-museum.jp/koheinawa/

その世界を支える「セル」という概念を、名和晃平は下記のように説明している。

細胞や小部屋、ユニットといった、一つの単位のことですね。それが組み合わさって世界全体がつくられている、というイメージです。
http://www.beams.co.jp/andmore/interview/inteview-with-kohei-nawa-1.html

Scumという作品群は、動物やロボットの機械の表面にビッシリと白いカビ、苔ようなものが覆っている。
PixCell-Deerという作品群では、キラキラと光るビーズが鹿を覆っている。

白いカビやビーズは、その1つ1つが「セル」という最小の単位であり、それが密集することで非常につよい生命力を感じた。

それは幻想的で、ナウシカの腐海を思わせる世界観だった。
腐海では人間の活動は停止するが、腐海で生きられる生物もいる。
ある生命の停止がある生命の活動を支える世界。

それは、食物連鎖で支えられる現実の世界と同じだが、名和晃平の作品をつうじて感じる世界は幻想的だ。

そして、その展覧会の世界観は単純に、Webや本などで写真を通じて鑑賞しても味わうことはできない。

ぜひ、幻想的な名和晃平の世界を美術館に足を運んで感じてほしい。

これからを観てみたいと思わされた@日本画ZERO展

5月 5, 2011

展覧会が行われている空間も小さく、作品も少ない。

そして、キュレーターの村上隆の野望である<『日本画科』を完全になくす>という可能性を感じさせる、力強さをもつ作品はなかったと思う。

一方で、<その学科の餌食になった検体のけなげで可哀想な足掻きをガチでみせるのが主旨>という目的を達成している展覧会だった。

しかし、日本画が<日本人が日本人である寄る辺であり得る芸術の総体>という定義ならば、あの小さい空間を満たした絵画は、僕にとっての日本画をよく表現しているように思えた。

すくなからず、僕が日本人として寄る辺としているのは、伊藤若冲や酒井抱一ではない。
彼らの作品は僕にとって、日本古来から受け継がれてきたという意味で日本画の代名詞だが、すでに、生活から遠く離れたところにあり、非日常だ。
見せてくれ、といわれたとしても、簡単に彼らの絵を見せることはできないし、説明もできない。

一方、僕が知っている絵のうまい、日本を代表する作家は、井上雄彦だったり、鳥山明だったり、という漫画家だ。
彼らの作品は日常にあり、現在も消費し続けている。
彼らの作品なら僕は説明できる。魅力についても、語ることができる。

僕がどちらの側に寄っているのは自明だ。
そして、そんな僕にとって、どちらが寄る辺としての日本画と呼ぶにふさわしいかも。

だから、展覧会に飾られた絵画が、日本画の萌芽と言われれば違和感はさほど感じない。

そんな作品群のなかで、僕が特に気に入ったのは、日比谷泰一郎の作品だ。
彼の絵画は、アニメっぽさを少し残した、広告のチラシなどを使ったコラージュ作品だった。

コラージュにつかわれたチラシなどの文字や映像のやかましさが、新宿や渋谷の広告看板やネオンのやかましさを彷彿とさせる。
その絵は、日本を代表する街を縮図であり、日本をよく表現しているように感じた。

彼のステートメントを読むとこれからに悩んでいるようだ。
勝手ながらぜひ、これからも作品を作って欲しいと思う。
http://hidari-zingaro.jp/2011/04/statement_hibiya/

最後にどうでもいいのだが、ちょっと気になったのは作品を観ている間、写真をパシャパシャと撮られたことだ。
使用目的もわからないし、気になった。
展覧会ではふつうのコトと考えるべきなのだろうか。

<>内は引用。引用は、下記から。
http://www.honeyee.com/feature/2011/nihongazero/contents.html

「本当は、動いている」存在を探してしまうフロア@アーティスト・ファイル2011

5月 1, 2011

ゴールデウィークをアート三昧で過ごそうと思い、国立新美術館で開催されている「アーティスト・ファイル2011ー現代作家たち」展に向った。

アーティスト・ファイル展は、僕が現代アートに興味をもつきっかけになった展覧会で、毎回、見にゆくのが楽しみにしている。


今回、印象深かったのは、松江泰治の作品だ。

松江泰治の作品は、街、採掘場、平原を航空写真のようにとても高い視点からとらえた写真だ。
写真の外にある世界さえ感じさせる雄大な作品だ。

一方で、人工的でジオラマをとらえたかのような非現実感をたたえている。
不思議な、不調和、不均衡を感じさせる作品だ。

松江泰治の作品が印象に残ったのは作品の魅力によるものだけではない。
その作品の見せ方、キュレーションによる力も関係している。

作品が展示されているフロアに入ると、まず、映像作品をみせられる。
そこでは、これから写真で見るであろう静止した風景が、動いている。
風景は採掘場で、動いているのは砂利のようなものを積んでいるトラックだったと思う。

そして、フロアの中央には、衛星から撮影されたような街中の人びとの写真が飾られているのに気づく。
プールサイドでくつろいだり、街中で犬の散歩をしたりしている人びとが、ぼやけた姿でとらえられている。
それをみると、広大な風景の中に、非常に小さな存在としての人を意識させられる。

これらの作品をながめあとに、パンフレットに目を落とした。
パンフレットには、「本当は、ずっと動いている」という赤い文字が書かれていた。

そして、雄大な風景の写真を見る。
そうすると、写真をとらえる自分の視点が変化してしまったことに気づいた。

写真という静止した世界に動いているなにか、を発見しようとするになってしまったのだ。
静止した街の中に人が、採掘場の中にトラックが、平原には動物が、映像作品のようにうごく姿を探してしまうのだ。

広大な景色を収めた写真のなかには、フロアの中心に置かれた衛生からの写真のように、小さいながらも動く存在がいるはずだからだ。

そんなふうに考えてしまうと、いままでゆっくりと眺めていた作品を落ち着いて鑑賞できなくなってしまう。

この写真のどこかで、人が、トラックが、動物が、動いているのではないか、と作品のはしばしまで目をはしらせるようになる。

大きな写真は全体を眺めようとすると、画面のなかでは小さい人やトラックはとらえることはできない。
一方で、小さい人や動物を見つけようとすれば、目を凝らして画面の1点に集中するため、画面の全体はとらえきれない。

結果、画面で動いているものをさがすために、せわしなく目を画面にはわせることになる。
そして、目をはわしている間じゅう、ずっと落ち着かない気持ちにさせられる。

フロアの最初に飾られた映像作品と「本当は、ずっと動いている」という一言に、僕の視点はすっかり乗っ取られてしまった。

キュレーションによって与えられた視点から、逃れることはできなかった。

松江泰治の作品が満たされた空間にいた間、僕はずっと、背中や腕にアリがはうような感覚に襲われていた。

僕はアリがはいまわる感覚から逃げ出すように、次のアーティスト、タラ・ドノヴァンのフロアへ向かった。

コンセプトの面白さに惹かれた@テオ・ヤンセン展

2月 13, 2011

先日、お台場の未来館で開催されていたテオ・ヤンセン展を観てきた。

つい少し前まで、ぼくは、テオ・ヤンセンというアーティストを全く知らなかった。
だが、親しくしている先輩に、先年の暮れあたりにテオ・ヤンセンの存在を教えてもらい、興味をもっていた。

そんな時にタイミング良く、展覧会が開かれることを知り、是非にと思い足を運んだ。

事前に調べてから展覧会へ向かったので、テオ・ヤンセンというアーティストがどういうアーティストか、というイメージを持っていた。

僕からみて、テオ・ヤンセンというアーティストは、物理の世界に魅せられた、歯車が象徴する無機質で冷たい作品をつくるイメージだった。

ところが現地に足を運ぶと、こうしたイメージは覆された。
テオ・ヤンセンは、生物を作ろうとしていた。

彼の作る人工生命「ビーチアニマル」と呼ばれ、風をうけると自動で動き始める。
そして、ビーチアニマルは、進化する。
地球の生物が、白亜紀や三畳紀などを経て進化してきたように、ビーチアニマルも進化の過程をもっているのだ。

テオ・ヤンセンは、進化の過程とそれぞれの世代の環境などについて丁寧に説明している。

巨大で、周囲の風を震わせながら堂々と動くビーチアニマルには、見ただけでは生命の温かみを感じない。
何を考えているのかわからない恐ろしい存在だ。

しかし、テオ・ヤンセンのビーチアニマルのコンセプトに触れると、ビニールチューブやペットボトルで構成されるビーチアニマルが、突如、温かみをもつ。
幾世代も厳しい環境を生きぬき、進化してしてきた生命を宿したような存在として目に映るようになる。

風を受けてうごく物体としての構造も見事だが、それ以上に、物体にたいして生命を与えるコンセプトが素晴らしい。
物体に生命をあたえる、テオ・ヤンセンのコンセプトこそが、彼の作品の魅力だと感じた。

一体感のある場づくりの難しさを感じた@愛知トリエンナーレ

9月 23, 2010

一体感のある場を作るのは難しいものです。
大人になればなるほど、それは難しくなるように感じます。

たとえば、小学校の頃の運動会。
おそらく大半の人は文句を言いながらも、ダンスや行進の練習を素直にしていました。

ですが、高校生の文化祭となると、もうダメです。
なんとなく反抗心を抱く人や自分でやりたいことが出てきた人たち、彼や彼女たちには参加を強要できません。

社会人となり、仕事の場となるとさらに複雑です。
家庭を持つ人、仕事以外にやりがいを求めて活動している人、こうした人たちに業務を命令することはできます。
しかし、納得して活動してもらうことはできません。

愛知トリエンナーレの会場、名古屋の街中で感じたのはそんな雰囲気でした。
1つ1つの会場は確かに盛り上がっているのですが、「名古屋」という街全体ではそれほど盛り上がっていないような雰囲気だったのです。

会の運営方法が悪い、と言いたいのではありません。
会場の運営に携わっているボランティアの方々が街中におり、質問をすれば丁寧な対応をしてくれます。
名古屋の街に点在している会場にも人と活気が溢れていました。


しかし、会場から一歩、足を踏み出して街中へでてしまうと、活気も消えてしまうのです。
せっかく会場で味わった雰囲気の余韻も、次の会場へ向かうまでに完全に消えてしまうのです。

1つ1つの場はしっかりとしているのに、それぞれがつながりがない。
これは、1つ1つの場が盛り上がっているからこそ、とてももったいないことだと思います。

一体感のある場にいることは、とても楽しいことです。
ただ、すべての人達がその場に参加し、一体感を得ることはできません。
というのは、そもそも活動自体があることを知らないという人もいますし、知っていても興味がわかない、という人もいるからです。

どのような場にも、その場に参加できず、一体感をもてない人達がいます。
問題は、その人達をなくすことではなく、参加意識の高い人達の一体感が、その人たちを上回れるか、ということです。
愛知トリエンナーレの会場である名古屋市内では、いまはまだそのような状態になかったのだ、と思います。

街中の至る所にアートを配置し、それによって場の一体感が醸成されると考えられたかもしれません。

しかし、それ以上に街中で目についたのは、アートに興味がない人たちです。
興味がない人たちが邪魔だ、と言いたいのではありません。
むしろ興味のない人達にとっては、アートのイベントこそが邪魔で迷惑だったのではないか、と思うのです。

そして、そんな空気を感じてアートを見ている人たちも、ちょっと冷めてしまう、という感じ。
お互いに不幸な関係があったように思います。

境界を取り払ってものごとを行ない、周囲を巻き込み、共感を得ることで場の一体感は生まれることもあるでしょう。
でも、それはとても難しいことです。

愛知トリエンナーレというイベントは、その難しい場づくりに挑戦したイベントだと思います。
ただ、まだ時期尚早、アートと生活の場に境界を設けて、イベント開催したほうが良かったのではないかと思います。
そのほうが少なからず、アート目的に集まった人たちは、場の一体感を感じて盛り上がることができたのではないでしょうか。

いろいろ文句を書きつらねてきましたが、愛知トリエンナーレというイベントに行けたことにはとても満足しています。
とくに、オペラの『ホフマン物語』の豪華な舞台装置とオーケストラの演奏は、素晴らしい、の一言でした。
オペラは初めて鑑賞しましたが、とても楽しかったです。

なにより、暑いなか沢山のボランティアの人々と各会場の来場者の熱気は、日常的に開催される現代アートの展覧会と比較にならないものでした。
このような熱がトリエンナーレが終了しても続けば、次回はもっと街中にアートな雰囲気があふれた良いイベントになるかもしれません。

プログラマーとマン・レイの相似

8月 15, 2010

ブログを書くこと、スポーツをすること、自らを着飾ること、音楽を奏でること。
こうしたことにおいて私たちは、自己や美意識を表現しようという抑えがたい欲求をいだきます。
私生活ではもちろんのこと、仕事でも同様です。

例えば、私はシステムエンジニアです。
システムエンジニアとして、たとえどんな言語を使用していたとしても、コードを書くときはアーティストであろうとします。
コードを書くこと、プログラムを生み出すことにたいする哲学と美意識をその作業とプログラムに込めようとします。
そして、ひとたびプログラムを誰かが見る、と耳にしたら、自らの哲学と美にたいする自信を感じつつ、批判や嘲りを受けるかもしれないという恐怖にかられるのです。

とはいえ、私は同僚などからとりわけコードを書くことにこだわりを持っているとは思われていません。
そして、自身でもコードを書くことそのものに強いこだわり感じていると思ってはいないのです。
こんな人間ですら、プログラムを書くときには上記のようなアーティストであろうという感情を抱くのです。

この業界は多少はあれど、コードを書くときにはすべての人はアーティストなのです。

むしろ、アーティストとしての意識の強い人は、私のようにシステムエンジニアなどとは名乗らず、プログラマーと名乗るでしょう。
また、プログラマーは私のように恐怖など感じないでしょう。
むしろ、自らの才能と作品を評価しようとしない周囲に憤りを感じ、自らの作品を誇ります。
しかし、周囲には気付かれないように、その作品をさらに磨き上げる努力を惜しまないのです。

私が、国立新美術館で目にしたマン・レイと作品と生き様は、このプログラマーというIT業界の革新を支える人たちを思わせます。

マン・レイの魅力は、その自由な活動とアーティストとしての強烈な意識です。
ヴォーグなど、今もなお存在するファッション誌の写真家として成功し、ピカソ、ヘミングウェイ、ジャン・コクトーなど名だたる著名人たちを被写体としてなお、彼は画家としての成功を夢見ました。
そして、「写真は芸術ではない。私は写真家でもない。」という言葉を残しています。
マン・レイは単に、被写体を記録する道具として写真を捉え、レイヨグラフ、ソラリゼーションとよばれる作品群を創り上げてなお、彼は自らの写真を芸術とすることをよしとしなかったのです。

そして、自由に平面と立体、写実と創作の世界を自由に行き来した人でもあります。
絵画や写真などの平面の世界、オブジェやチェスの駒のデザインといった立体の世界。
正確に姿を写しとる写真の世界、ダダ、シュールレアリスムという無意識と幻想の世界。
マン・レイはその興味と意欲の向くままに活動を行ないました。

マン・レイは、アーティストであるという強烈な意識を持ち続け、その創作意欲と表現を抑えこむようなことをしませんでした。
一時期は、活動の中心であり、名声の源泉であった写真から遠ざかり、絵画に取り組んだ時期もあります。
結果、死してなお、写真以外の多くの作品と共に「マン・レイ」の名は、シュールレアリスム、ダダの中心的なアーティストとして残ることになりました。

マン・レイは、このアーティストとしての評価を受ける自身の未来を予言しています。

ワインも新しいうちは酸っぱいが、年を経るうちにまろやかな味になっていく。それと同じように、写真も初めは単なる技術に過ぎないが、やがては本物の芸術になるのだろう

自らが芸術ではない、とした写真について、マン・レイはなぜ、なお芸術となりうると言ったのでしょうか。
私には、アーティストである彼の自尊心がこの言葉を言わせたように思えます。
すなわち、アーティストである自分が写真という技術に関わったのだから将来はきっと芸術に昇華する違いない、と、

私の業界にもアーティストであろうとする、システムエンジニアとプログラマーがたくさんいます。
彼らのそうした意識こそが、写真と同様にプログラムにおいても、マン・レイの予言を実現させる日、すなわち、プログラムとそれを生み出すプログラミング、コーディングという行為を芸術に昇華させる日がくるかもしません。

しかし、受託システム開発においてお客様の役に立つのか。
これはまた別のお話し、でしょうか。

【会場情報】
◆国立新美術館-「マン・レイ」展
http://man-ray.com/
◆TAB-マン・レイ 「知られざる創作の秘密」 展
http://www.tokyoartbeat.com/event/2010/E879

【作家情報】
◆マン・レイ(Man Ray)
Wikipedia-マン・レイ

Wikipedia-Man Ray

【次の予定】
◆未定

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都心で純度100パーセントの暗闇から刺激を受ける

8月 8, 2010

先日、外苑前近くで開催中の「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」へ行ってきました。
一般の参加費は5000円、と結構お高めですが、その価値がある新鮮な経験ができました。

会場は、純度100パーセントの暗闇。
その中を複数の人の参加者の人達と、視覚障がい者のアテンダントさんの案内にしたがって歩きます。

中でどのようなことが出来るのか、実際に体験いただくとして、純度100パーセントの暗闇の世界は衝撃的です。
純度100パーセントの暗闇に人間の目はなれません。
いつまでたっても見えるのは暗い闇です。
ときどき目の前の物体が見えたように思うのですが、気のせいにすぎません。

また、空間の広がりを認識することもできません。
なんとなく、「行き止まりかな」と思って目の前の空間に手をさし出しても、その先に暗闇に手が沈んでゆくだけです。

見えたように思う、モノ。
途切れるよう思われる空間。
そうしたものは、想像に過ぎません。
視覚からの情報が遮断されたために、人間の脳は想像によって欠けた情報を補おうとするのでしょう。

また、視覚が遮断されると匂いや音、触感にも敏感になります。
そして、それらの刺激がまた脳を刺激して、新たな想像を巡らせるきっかけを作ります。

草わらの匂いを感じたり、水に触れたり、草木に触れたりすると、それらのモノがどのような状態なのかを頭に描こうとします。
また、それらのモノがある空間がいったいどのようになっているのか、その状態を頭に描いて理解しようとします。
視覚の情報が遮断されたことにより、普段よりもイマジネーションを使用して、世界と接することになるのです。

なにより、暗闇にいると普段より多くの言葉を発して周囲とコミュニケーションをすることが新鮮です。
暗闇のなかでは声が重要な手がかりだからです。
上記のように、空間を想像しようとしてもそれは想像に過ぎす、事実ではありません。
そのことに気づくと、暗闇では声も出さずに無闇やたらに行動することが危険であることに気づきます。

また、声を出さないと自分のことを周囲の人たちが認識できないことにも気付かされます。
このような感覚は恐怖をうみます。
実際はイベントなので、暗闇のなかでひとり取り残されることはないのでしょうが、それでも少しでも人との交流が途絶えると恐ろしいのです。
だからこそ声を出して自分の存在を周囲の人達に知ってもらおうとします。
そして、周囲の人たちの呼びかけの声にも応えようとします。

発案者である哲学博士のアンドレアス・ハイネッケ氏(アンドレアス氏といいます)は、以下のようにダイアログ・イン・ザ・ダークの価値を述べています。

現在の物質的に豊かになった世の中では、人間は倫理と人道的な価値観とを損ないがちであり、利己主義になる。
しかし暗闇のなかで人間は誰でも平等であり、それぞれの中にある根本的な価値観を思い出し、謙虚さや感謝を甦らせることができる。
困難に直面しても、お互い協力し合えば一緒に乗り越えられることを誰でも知っている。
それをダイアログ・イン・ザ・ダークを通して実際に体験できる。
http://www.dialoginthedark.com/forv/int1.html

たっぷり90分間このイベントに参加すると、アンドレアス氏の言うこのイベントの価値を知ることができるでしょう。
なお、私は7人で参加しました。
しかし、それよりも少ない人数で参加すると他の参加者の方達と一緒に回ることができるようです。
初めて会った人たちと暗闇の中のコミュニケーションを楽しむの良いかもしれませんね。
暗闇から刺激をうけて想像力をかきたてられたい方。
一緒に参加してコミュニケーションを深めたい人がいる方。
そんな方には、おすすめです。

【会場情報】
◆Dialog in the Dark Tokyo
http://www.dialoginthedark.com/

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システム開発はもっとデザイン的要素が必要だと考えた

5月 23, 2010

先日、「世界を変えるデザイン」展のカンファレンスに参加して、お話を聞いてきました。

1つは「エマージング・マーケットにおけるデザインの可能性」というタイトルの、Jan Carel Diehlさんのお話。
http://exhibition.bop-design.com/event/conference_5/
もう1つは、「デザイナーができること ~DESIGN CAN CHANGE THE WORLD~」というタイトルの、Ilona de Jonghさんのお話です。
http://exhibition.bop-design.com/event/conference_4/

彼らは、BOPビジネスに関わるデザイナーです。
BOPとは、Bottom Of the Pyramidの略で、発展途上国にいる低所得者層を意味します。
BOPビジネスは、そうした発展途上国に住まう貧困地域の人々の支援を行いながら、新たなビジネスマーケットを開拓することを目的とした取り組みです。

彼女たちが、デザイナーという立場で仕事をしています。
が、その話のなかで繰り返し使われていた言葉、すなわち重要視されていた要素は、システム開発にも関連が深いと感じられるものでした。
いかにまとめてみようと思います。

<オープンマインド>
JanさんもIlonaさんも「オープンマインド」という考え方を非常に重視していました。
彼女たちは、BOPビジネスに携わる立場から、貧困地域の生活の問題をデザインによって解決しようとしています。
しかし、すばらしいデザインは、天才的なひらめき、インスピレーションにのみによっては生まれません。
むしろ、プロダクトの受け手をよく調査することこそが、ひらめき、インスピレーションの源になります。
BOPビジネスに携わる彼らの調査対象は、貧困地域とその地域に住まう人々、ということになります。
そして、この調査において重要なことは、オープンマインド、であることなのです。

異なる文化、慣習を持つ地域、そしてその地域にすまう人々との交流は、いろいろな摩擦を生みがちです。
善悪の基準が異なることもあれば、美醜の感覚が異なれば、「良い」もの、「良い」デザインというものも変わってくるでしょう。
また、使用する言葉が違えば、自分が思っていることも、相手がおもっていることも正しく通じ合うことが難しくなります。
こうした状況下で、相手を否定したり、拒絶したりすることはとても簡単です。
しかし、そうして相手の意見や考えを無視してしまえば、綿密な調査は望むべくもありません。
むしろ、それらを尊重し、積極的に学ぶ必要があるのです。

オープンマインドとは、未知の文化や考えを積極的に受け入れる広い心、そして、積極的に学ぶという謙虚さを意味しているのです。
現地での調査を重視するという、現場主義においては、このオープンマインドが基礎であり、重要な要素になると考えられているのです。

<サスティナブル(継続性)>
貧困地域と関わるビジネスは、継続性が鍵です。
たとえば、収入で考えてみましょう。
100万円というお金を1度に寄付するよりも、1万円を10ヶ月間かけて寄付したほうが、地域は安定するでしょう。
というのは、不定期に大きな収入を得るより、小額でも定期的な収入を得られたほうが、人々は生活の計画が立てやすく、金銭を貯金や投資などがしやすくなるからです。
生活の予想ができる、計画が立てられる、というのは、安心の源です。

BOPという観点からは、地域の安定というのは無視できない重要な要素です。
とりあえず、ある地域にかかわったものの、うまくいかなからといってすぐに撤退してしまうと、そのコミュニティを破壊しかねません。
一時は斬新なアイデアでうまくいっていたため、ビジネスの競合となった地元企業をつぶしてしまったものの、ビジネスとしては赤字になったため撤退する。
このことによって、地元で同様のサービスを提供できる企業がなくなり、その地域の人々はサービス自体を受けられなくなる、という事態がおこりかねません。

このような事態を防ぐためには、そもそも地元企業と競合するようなサービスをもってBOPとして提供しない、という配慮が必要でしょう。
しかし、図らずも地元企業と競合し、その企業が消滅してしまったのであれば、そのサービスを継続的に提供し続ける、という義務が生じます。

また、低コストのビジネスである、ということも重要です。
BOPという性格上、そのビジネスがどれだけ大成功しても、大もうけは期待できません。
また、そもそもビジネスが成功するか、が未知数です。
そのうえ、ビジネスは継続することを念頭におく必要もあるのです。

ですので、コスト、必要とされる経費は可能な限り低く抑え続ける必要があります。
お話の中では、初期の費用よりも、それを維持するためのコストを低く抑えることの重要性が取り上げられていました。

なにごともはじめる事は、それほど難しいことではありません。
とくにBOPのように、貧困地域という弱者に先進国の資本という強者が関わるのですから、そのハードルは相当低い、と言えます。
しかし、一度、サービスを提供したら、そのサービスの質を保ち、消費者が必要な限りサービスを提供し続ける義務があります。
これは、先進国のビジネスでも当然のように求められることです。
BOPビジネスにおいては、その地域と人々の生活を安定させるためにも、より強く継続性は求められているのです。

<すでにあるモノを利用する>
ある参加者の方が「デザインを盗まれたらどうしますか?」という質問にIlonaさんが以下のように答えました。
「それは誇りに思うべきことだ。知恵やソリューションは共有されるべきものだから。」

もちろん、「事前に連絡して欲しい」という主旨のこともおっしゃっていたので、「盗用を認めた」わけではないでしょう。
しかし、自らのアイデアを利用されることについて、金銭的な見返りをもとめていません。
むしろ、多くの場所で自分のアイデアが利用され、問題が解決されること、そして、自らのアイデアがさまざまな場面で利用され、さらに磨き上げられることを望んでいます。

この考え方は、ITの世界ではすでに一般的であるといえます。
すなわち、Linuxなどが代表するオープンソースがこの考え方に近いと思います。
また、オブジェクト指向が目指すプログラムの再利用、そして、Javaが理想とするWrite Once, Run Anywhereという思想もきわめて近いです。

デザインもコードも、それを生み出す人々のインスピレーションを源泉としている、と考えられます。
そのため、自らの生み出したものが唯一無二だと考え、そのオリジンを主張したくなります。
そして、それらを守るために自らが生み出したものを他者に利用されることを拒みたくなります。

もしくは、自らの力量と自尊心を守るため、すでに他者が生み出した素晴らしいものがあるのに、それを使用することを拒む、ということもあります。
とかく、デザインには、一般的にデザイナーという個人の才能や霊感によって生み出される、というイメージがあります。
また、デザイナー自身も、みずからの手で新たなプロダクトを生み出したい、という欲もあるでしょう。
そのため、「何でも自分で作り出す」という意識をもちがちです。
しかし、その気持ちを抑えて、利用できそうなものは、有効に利用すべきなのです。

すでにあるモノを自らでイチから生み出す必要はないのです。
むしろ、利用すべきなのです。
すでにあるモノに自らのアイデアをつけたしたり、すであるモノ同士を結びつけたり、すでにあるモノの欠点を解消したりすることも視野に入れてデザインすべきなのです。

<デザインとは目的を達成するためのより良いプロセスをつくること>
現代において、デザイン、という言葉は多くの領域にまたがって使用されています。
単に魅力的、奇抜なカタチを生み出すことを目的としませんし、またなにか物をつくり出すことを目的としません。

では、デザインとは何なのでしょうか?
私がお二人の話を聞いて思ったのは、
デザインとは、

目的を達成するためのより良いプロセスをつくること

なのだ、ということです。
美しいカタチのプロダクトデザインも、BOPビジネスにおける地域への取り組みも、目的が存在します。
たとえば、美しいオーブントースターはパンをトーストにすることを目的としています。
また、JanさんのPeePooは、地域の衛生状態の改善を目的としています。
しかし、その目的を達成するためには、トースターやPeePooが不可欠なのではありません。

目的にいたる方法いくつもあります。
トーストはフライパンで焼いてもいいわけですし、衛生状態を解決するには下水を整備し各家庭にトイレを設置しても良いのです。
ただ、それらの方法はデザイナーにとっても、そのプロダクトを受け取る人々にとっても最適なプロセスではなかったのです。
パンを焼く人は、焼いた後わざわざフライパンを洗いたくもなければ、硬質で面白みのない形のトースターでパンを焼いても良い気持ちになれないのです。
また、PeePooを使う人々は、下水を引いて個別の家にトイレを作るお金もなければ、時間もありませんし、解決したい問題が他にも山ほどあるのです。

ですから、デザイナーは、プロダクトの受け手、もしくはデザイナーが届けたいと思っている対象を調査し、最適なプロセスを提示するのです。
そして、提示する方法がモノのカタチを決めることであったり、ものごとのプロセスを決めることであったりするのです。

デザイナーの仕事であるデザインとは、目的を達成することだけでなく、目的に到達するためのプロセスをより良くつくりあげることなのです。
このように考えると、デザインとシステム開発、それも受託システム開発の目的は非常に似ているといえます。
ビジネスアプリケーションもまた、アプリケーションを使う人々の業務プロセスをより良くすることを目的としているからです。
受託システム開発においては、まだ「デザイン」が強く意識されているとはいいがたいです。
ですが、「デザイナー」の思考方法やプロダクトを生み出す過程から学習することがたくさんあるはずです。

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現代アートの魅力は作品と鑑賞者との対話にある、と考えた

5月 4, 2010

現代アートの面白さ、それは作品への解釈の自由度にあります。
もっといえば、現代アートの楽しみは、作品と鑑賞者との対話、インタラクティブ性にあるのだと思います。

古典といわれる芸術作品は、とてもわかりやすい、という特徴があります。
わかりやすい、というのは、テーマと描かれる作品が理解しやすいということです。
たとえば、ルーベンスの『十字架降架』という作品があります。

絶命したキリストが十字架から降ろされる場面を描いた作品です。
この作品の意味は、「十字架降架」というタイトルではっきりと示されています。
タイトルから、場面の中心に描かれている、ぐったりとして白い布に包まれようとしている男性がキリストであることもわかります。
もうすこしキリスト教の教義、聖書に詳しければ、キリストの周囲を取り囲んでいる人物たちが誰なのか、がわかるはずです。
作品の意味を理解するには、宗教の教義や西洋の歴史について知識をもつ必要があります。
ですが、場面に描かれている人物なのか、物なのか、ということがわかりやすく描かれています。

翻って、現代アートはどうでしょうか。
今回の上野の森美術館絵画大賞を受賞した作品、根木悟の『TRAVELS#2』は抽象画です。

抽象画といえば、ピカソやブラックで有名なキュビスムと同列に「意味がわからない」という感想がもたれがちなジャンルの1つです。

これらの作品の「意味のわからなさ」というのは、描かれているのが
人物なのか、物なのか、
人物だとして誰なのか、男なのか、女なのか、
物だとして十字架なのか布なのか、
このようなことがわかりにくい、もしくはまったくわからない、ということに起因します。

また、タイトルも意味がわからない、もしくは、描かれているものとのつながりがわかりにくい、という原因もあります。
抽象画では、カンディンスキーの『コンポジション』シリーズが有名です。
描いてあるのは、色とりどりの図形と線。ときどき、何かを模したと思われる図像が出現するだけです。
タイトルの「コンポジション」は、構図、構成という意味をもっています。しかし、それ以上の意味はありません。
そのため、鑑賞者は、描かれているものが構図、構成であることしか理解できません。
描かれたものが構図、構成が、「なにの構図、構成なのか」は理解できないのです。

このような状況において、作品の鑑賞者は、作者に与えられたタイトルと作品の形相をもとに、作品を理解しようと積極的に参加することになります。
作家が作品を理解するための手がかりを完全に提示しないため、その欠落を補うために自分の知性や感性を働かせようとするのです。
砕けた言い方をすると、自分なりに作品を理解しようするわけです。

ルーベンスの作品が代表する古典作品は、完成されている、といえます。
作家は、タイトルと創作物のみによって、作品がいったい何をあらわしているか、を完全に説明しようとします。
その作品は、鑑賞者による別の解釈が差し挟む余地のない、世界を創作するのです。

一方で、抽象画という作品は、未完成である、といえます。
もちろん、作家自身は、その作品の創作を終了した時点で、完成させています。
しかし、タイトルもモチーフもわかりづらい作品は、鑑賞者によるさまざまな解釈が可能です。
そのため、作品は、受け手である鑑賞者の解釈により、作品の意味や魅力を変えられます。世界を変えることができるのです。
結果、その作品は、受け手である鑑賞者により完成させられる、ともいえます。
この考え方は、作家の創作性を無視しすぎている、かもしれませんが。

現代アートは抽象画よりも、作品そのもののテーマやモチーフがより抽象化しています。
上野の森美術館大賞の各賞の受賞作品でも、根木悟の『TRAVELS #2』、西原東洋の『FREE STYLE』、佐伯勝司の『女.100.1』は、かなり抽象的な作品です。
<作品はこちらか らご覧ください>

各作品のタイトルは、具体的な意味をもっていて示唆的ではあります。が、鑑賞者が作者の意図を理解するにいたるまでの材料は提供していません。

こうした、現代アートの抽象化は、作家の個性と内面の重視と表現形式の広がりによるものでしょう。
現代の作家は、作品が「どのように鑑賞者に受け止められるか」という点よりも、「自分の感性や思想がどれだけ表現できたか」という点を重視しています。
上記の受賞作品も作家自身が好む表現形式で、自分が感心を抱いているテーマやモチーフを描いています。ようするに、誰かに頼まれて描いているわけではなく、作家自身の「描きたい」という欲望に従って描いているのです。

表現形式も多様化してます。
デュシャンの『』、ダミアン・ハーストの『NaturalHistory』シリーズ、リクリット・ティーラワニットの『パッタイ』など、絵画や彫刻などという枠に収まらない作品が多数あります。

現代アートのこうした多様性は、「意味不明」と称される原因になっています。
しかし、鑑賞者からすると「意味不明な作品に意味を見出す」という面白みの源でもあります。
それは、作品を楽しむ自由を鑑賞者に与えてくれるのです。

「意味不明」と切り捨ててしまえばそれまでの作品たちを鑑賞し、自分自身の知性や感性によって作者がこめた思いや感性を汲み取ろうとすること。
また、作者すら意図しなかった作品の魅力を作り出すこと。
このように、作品と鑑賞を通じた対話を楽しむこと、それこそが現代アートの楽しみ、なのです。

【会場情報】
◆上野の森美術館-「第28回 上野の森美術館大賞」展
http://www.ueno-mori.org/taisho/28/visual-index.html
◆TAB-「第28回 上野の森美術館大賞展」
http://www.tokyoartbeat.com/event/2010/5AF9

【次の予定】
◆森美術館-「六本木クロッシング」展
http://www.mori.art.museum/contents/roppongix2010/index.html
◆TAB-「六本木クロッシング2010:芸術は可能か?」展
http://www.tokyoartbeat.com/event/2010/2976

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