Archive for the ‘映画’ Category

「真実は小説の中にある」という言葉@『最初の人間』

1月 20, 2013

『最初の人間』を岩波ホールで見てきた。
http://www.zaziefilms.com/ningen/introduction.html

厳しい祖母、優しい母、理解ある教師そして、癒しである太陽と海、原作者であるアルベール・カミュの青春と人生を支えた存在への強い思いが優しく表現された映画だった。
独立を目的としたテロに揺れるアルジェリア。
そのアルジェリアにフランス人として生まれ、フランスで有名作家となった主人公、カミュの分身であるジャック・コムルリ。
出身大学でのアルジェリアを支持するスピーチをおこなったものの、会場は荒れる。

アルジェリアの寄り添うことを心に決めつつも、フランス人として名声と富を得た自らの立場とアイデンティティに悩む。
ジャックは、自らのルーツを探すように亡き父のことを調べはじめ、幼い時を過ごした場所を訪ねる。

僕の印象に残った言葉が、ジャックである恩師であるベルナールの言葉だった。
それがタイトルにもした「真実は小説の中にある」という言葉だった。

この言葉はどういう意味だろう。
小説にの中にある真実とは、人びとの生活を描き出すこと、そして、読み手にその生活を想像させ共感させることなのだと思う。

よく言われるが死者の数も多数になれば統計になる。
ようするに問題が大きくなればなるほど、その問題に煩わされ、不幸を背負う人びとの姿は消えてなくなる。

貧困問題、紛争という大きな概念を指す言葉がそうだ。
言葉から、問題の重大さは伝わってくるが、人びとの生活と苦悩を想像させる力はない。

たしかに、マクロな視点は問題を整理し、問題の真の原因を発見する手助けをしてくれる。
一方で、マクロな視点から生み出される解決策は単純化されていることがおおい。
「ここに至っては武力解決もやむを得ない」という言葉はまさにマクロな視点による発想だ。

地域紛争を解決する方法が、武力解決しかない、ということはありえるかもしれない。
ただその地域には生活している人々がいる。
武力による解決によって、生活する人びとは死をはじめとしたあらゆる不幸を背負う。

ベルナールが小説の中に真実がある、というとき、アルジェリアの独立という大きな問題が覆い隠す人びとの存在が描かれることを期待しているのではないだろうか。
アルジェリアの独立は、大きな視点からはアルジェリア人(映画ではアラブ人という言葉が使われていた)とフランス人の対立として捉えられる。
フランス人はフランスを支持し、アルジェリア人はアルジェリアを支持する、という暗黙の前提がある。
その前提では、事実として、フランス人としてアルジェリアに生まれ育った人びとがいることが考慮されていない。
彼らの苦悩は存在しない。

しかし、人びとの生活を描ける小説であるのなら、彼らの苦悩を描き出せる。
彼らのことを知らない人びとが、小説を通じて彼らに共感し、理解する機会を得る。

真実が宿る小説とはそんなものではないだろうか。

この映画を見た後で、奇しくもアルジェリアで日本人も人質に含まれるテロが発生していることを思い出した。
触れなければならないように思えたのだけど、なぜテロが発生したのかの理由、背景を僕は知らない。
人びとの生活がどのようなものなのか、想像もつかない。
ただ、問題への無知と想像力のなさが問題を長引かせる、ということが原因であることがわかるのみだ。
だから語れることがない。

ただ、双方の被害が少なく問題が解決することを祈る。

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物語の外側の気になること@『最強のふたり』

9月 17, 2012

ふたりのうちのひとり。
大富豪の老人、フィリップ。

フィリップはパラグライダーの事故で首から下が全く自由が利かな体になったのだけれど、単身で事故にあったのだろうか。
パラグライダーのシーンでは、彼はインストラクターと一緒に飛んでいたのだけれど、それは体の自由が利かなくなったためなのだろうか。

もしも、フィリップが事故にあった時もインストラクターと一緒に飛んでいたとしたら、そのインストラクターはどうなったのだろうか。
一人は首から下が不髄になるほどの事故だ。
インストラクターも無事であるとは思えない。相当な大怪我をおったかもしれない。
再び空を飛ぶことが恐ろしくなってしまったかもしれない。
事故の責任を取らされて失職してしまったかもしれない。

フィリップの事故に巻き込まれたインストラクターが本当にいたとしたら、ドリスに出会って彼が救われたように、インストラクターにも救われてほしいものだ。
本当にいたらだけど。

ふたりのうちのもうひとり。
黒人移民の子、ドリス。
彼はフィリップはどこで打ち解けたのだろう。
移民の黒人の子と首から下が不髄の大富豪の老人、両者を結びつけたものは一体何だったのだろう。

貧乏と自由にならない体という弱点をお互いに持っている。
そうした弱点をもつ苦労を互いに認めあったり、慰めあったりする場面はあった。
ただ、お互いが自分の弱点についての事実や気持ちを率直に話すのは、すでに心をひらいているからだ。

その前の心を開くきっかけは何だったんだろう。
なにかドラマがあることを期待するけど、一方で、ドラマがあったというわけでもないというものわかる気がする。
毎日の一緒に居つづけることこそが、お互いの心を近づけたという方が説得力がある。

ただ、ドリスがその時まで全く関わりなかった大富豪の家にとどまり続け、介護の仕事を続けられたのはなぜだろうか。
自らが抱えていた貧困を解消したいという動機だろうか。
映画の随所で見られた性根の明るさと優しさゆえだろうか。

その動機はドリスだけの秘密。フィリップも知らないことなのかもしれない。
もしかしたら、ドリス自身にもわからないことなのかもしれない。

最強のふたり』という映画は実話を元にしている。
だから、ちょっとだけ映画では語られなかった外側の現実がきになった。

マイケル・ジャクソンの活躍は理解あるチームによって支えられていた

11月 8, 2009

<やっぱり観にいった『THIS IS IT』>
こんばんは、keisyuです。
2009/11/8(日)に、『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』を観てきました。
この映画は、マイケル・ジャクソン(以下、マイケルと略します)が今年の6月に死去した直後に、上映が予定されていました。
この一報を聞いて、死去した人の栄光を借りた商売に反発を感じた私は、映画を観に行くつもりはありませんでした。
しかし、2回もこの映画を観に行く、という後輩に勧められこと。
なによりも、マイケルがパフォーマンスをしている最後の姿が観るられること。
こうしたことからやはり観たい!
という思いが強くなり、朝1番の回を観にいってきました。

<やっぱり観てよかった!>
映画を観た感想は「観てよかった!」というものです。
映画の最初には、「for fans(ファンのために)」というメッセージが表示されますが、そのメッセージに偽りはありません。
『Wanna Be Starting’ Somethin’』、『Thriller』、『Beat It』、『Billie Jean』という往年の名曲。
『Human Nature』、『Heal The World』、『Man In The Mirror』という、マイケルの活動においてそれぞれの年代を代表するメッセージ・ソング。
これら有名な曲を歌い、ダンスなどのパフォーマンスを披露するマイケルの姿を観ることができるだけでも、今となっては大変、貴重です。

映像は、リハーサルのものなので、歌にせよダンスにせよ、100パーセントのパフォーマンスを見せてくれているわけではありません。
事実、映像の中にはそのような発言をするマイケルの姿が納められています。
しかし、そのマイケルの姿は、マイケルと同じ舞台に立つ、若いダンサー、ボーカルたちに見劣りすることはありません。
むしろ、若い才能たちのすばらしいパフォーマンスが、さらにマイケルの姿を引き立て、さらに輝いて見えます。
さらに、マイケルのパフォーマンス、舞台での打ち合わせの風景、そして、ライブで使用される予定であった映像、これらの要素で構成された映画の編集は
ファンの心理を知り尽くしたものであり、まさにファンは必見です。
私は、『Man In The Mirror』を聴いたときに、つい涙を流してしまいました。

この映画を監督した、ケニー・オルテガ(以下、ケニーといいます)は「ファンがどんなマイケルを見たいか?」を熟知してこの映画を製作したのだな、と感心しました。
この映画は各方面で取り上げられ、ファンでなくとも必見といわれています。
しかし、私はやはりこの映画はマイケル・ファン向けであり、ファンにとっての最高の映画になっていると思います。

<映画から学ぶ、良い質問の効果>
マイケルの生前の活躍を振り返ると、その活躍は歌とダンスにおける圧倒的な才能を抜きには語れません。
しかし、この映画を観ているとマイケルの活躍は、歌とダンスだけによるものではないことがわかります。
ライブ・パフォーマンスは、演奏、ダンス、照明、特殊効果など数々の要素で成り立っています。
マイケルのライブは、それらの要素について多数の才能あふれる人たちがあつまって作り上げられいるのです。
そして、マイケルの凄さはそのような才能を惹きつけ、まとめ上げ、良いチームを作り上げられる、という点であるということがこの映画を観てわかりました。
映画でも流される、マイケルと同じ舞台に立つ予定であった人々のインタビューを観ると、マイケルが如何に彼らに憧れ、尊敬を得ているのか、がわかります。

とくにこの映画の監督である、ケニーとの関係はこのチームの良い関係を観ることができました。
それは相手に良い質問をして、相手の考えていることを理解する、という関係です。

マイケルは、パフォーマンスについては妥協せず、自分の美意識や価値観にもとづいて、チームのメンバーに意見を言います。
しかし、マイケルの言葉は感覚的だったり、遠まわしだったりします。
たとえば、ある曲のテンポが速すぎると感じたマイケルはキーボード奏者に、「もっと遅く」という指示を出します。
キーボード奏者もそれに答えようとするのですが、なかなかうまくいきません。
というのは、「もっと遅く」(※マイケルは映画の中でもっと詩的な表現を使っていました)といわれたところで、それに具体的な基準がないからです。
音楽用語がわからないので、具体的な例を挙げることできませんが、音楽における共通用語で基準となる言葉によるテンポの指示であれば、キーボード奏者も、そのテンポで演奏することができるはずです。
結局、キーボード奏者は、マイケルにたいして「もっと具体的に指示してくれ」と頼んでいました。

たいして、ケニーはマイケルの遠まわしの言葉を、質問のよって具体化します。
マイケルがイヤホンの音が大きすぎて、うまく歌えないという状況で、「歌えない。慣れようとしてるけど、なれない。」といいます。
しかし、それはライブ全体のリズムを整えるために必要な仕掛けです。イヤホンをせずにライブをすることはできません。
また、マイケルの言葉だけだと、マイケルが何を望んでいるか、どのように対処してよいかわかりません。
そこで、ケニーは、
「いま、ミキサー(※音の調整を行う人)に何かできることはある?」
とマイケルに問いかけます。
その質問によってマイケルは、「イヤホンの音をもっとおとしてほしい」という具体的な要望を、ケニーに伝えることができました。

マイケルに限らず、人に要望を伝えるのが苦手な人がいます。
言葉が感覚的、詩的だったり、相手の間違いを指摘するときには言い回しが遠まわしになったり、してしまうことで、自分の考えや気持ちがうまく伝えられない人がいます。
こうした人たちの言葉を無視してしまうと、その人たちはチームになじむことができません。
また、その人たちの気づきや才能をチームに活かすこともできません。
そのような状況では良いチームを作ることはできません。
そして、そのような状況を打開するためには、「相手を理解しよう」という心と実際に理解するための質問なのです。

上記のマイケルとケニーのやり取りを観て、マイケルにとってケニーは良き理解者だったんだろうな、と感じました。
そして、良き理解者であったケニーだからこそ、この『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』という映画は、ファンを満足させる素晴らしい映画になったのだと思います。
それは、ケニーが「マイケルはいったいどのような自分をファンに見せたいか」ということを、一緒にライブを作り上げていくさなかに理解していたからだと思います。

いかにマイケルが素晴らしい才能を持っているとはいえ、その才能だけでは素晴らしいライブを作り上げることはできません。
ケニーをはじめとして、その才能を理解し、受け止め、形にするという努力ができる人たち、素晴らしいチームに支えられているからこそ、素晴らしいライブは作り上げられるのです。
この映画は、素晴らしいチームを作ること、そのチームを作り上げるためにお互いを理解すること、そして、お互いを理解するために質問する、ということの大切さも教えてくれました。

<ありがとう>
最後にあらためて感謝を。
この映画を作ってくれたケニー。
そして、映画でライブをよいものにしようとしていたスタッフたち。
なにより、この映画の主役、いままで多くの感動を与えてくれたマイケルに感謝します。
どうもありがとう。